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JR新宿駅の東口地下改札を抜けて左に曲がってすぐのところ、ルミネエストの地下1階にあたるところにベルクという小さい飲み屋がある。
店にはとりたてて特徴はないが、あえていうならイギリスやドイツの飲み屋を思わせる洋風で、メニューにはソーセージやキッパーヘリングとかがあり、いつも混んでいる。 こういう立地からしても静かに飲む場所ではないし、立ち飲みで済ませる客も多いが、下品に騒ぐような輩はみかけない。 もとは純喫茶だったそうで、その開店は1970年だそうだ。そのせいか、昔の新宿の左翼的な飲み屋の残り滓がここに集まっているのかどうかはわからないけれども雰囲気的にはそれらしい要素があるような気もする。しかし客たちはそういうことには関心がなくて、単に安くて居心地がそこそこいい普段使いの飲み屋として評価しているようだ。 店は立ち退きの危機にここずっとさらされているようで、しかしまだなんとか生き残っている。 たまにこの店にいくときは、ほとんどの場合はひとりだ。 せまい店にうずまくひとと酒とそれらに包み込まれた会話の混沌のなかで、黙ってひとりきりで酒を飲むのは人生におけるよろこびのひとつだが、実のところわたしにとってひとりで飲んで居心地がいい空間は多くはない。なごんでひとりで飲める場所は広い東京でも(わたしとの関係において)まれなのだ。 しかし、他人と飲むのがきらいだといっているわけではない。 それはもちろんのことすばらしいが、ひとりで飲むという行為にまつわるなんともいえない愉悦があるということを強調したいのだ。 周囲のにぎやかなひとびとの存在は自分がひとりでいるという事実を際立たせる。自分がその場にひとりで存在していることを、下線を引いて強調している。 そういう状態でざわめきを味わうのは本質的に人生そのものをあじわうことなのだと、ビールをもう一杯飲もうかどうか思案しながら思っている。しかし、人生を味わうという行為を追求するまえにいつもアルコールが回ってしまい、自分自身がその場の混沌に溶け出していって消えてなくなってしまったようにかんじられてくる。 あとに残るのは弛緩した思考のぬけがらとおなじように弛緩した肉体だ。 まあそれでもいい。ひとりきりで飲むのはあいかわらず楽しいのだから。
昼をはさんで数時間を国会図書館ですごした。しかし座って本を読んでいたわけではなくて、というかほとんど座ることはなくて、借りだし、コピー、返却を繰り返していた。
こういう行動に別の階にある地図の借りだしとコピーが加わると、館内における移動距離はばかにならない。1万歩くらい歩いたんじゃないかと思えるほどだ。 ここしばらくごぶさたさしていたらシステムが新しくなっており、自分用のカードで入館し、借りだし、コピーも申請するようになった。 館内のシステムは亀のようにゆっくりと動き、そのあいまにかんがえごとをする余裕を与えてくれる。 これは、(住宅地の道路にわざとカーブをつけるように)図書館というものは早足で歩き回るような場所ではないことを教えるために意図的にもうけられたのにちがいない。 しかしどんなしくみであれ、衝突と忍耐のあとで自然に慣れていくものだから、この国会図書館のシステムもすぐになれてなにもかんじなくなるはずだ。 それにしても、こういうすごいシステムがつかさどる図書館はコンピュータにうとい老人をどうかんがえているのだろうかと余計なことまでかんがえてしまった。
facebookに登録したのは、タイムラインによれば2008年5月20日だそうだ。
それからずっと放置していたのが、昨年秋あたりからちょっとずつ投稿をはじめて友達が増えはじめた。 ではなんでfacebookやってるのかということだが、基本的にはここ二十数年来ネットでなんらかの存在表明をしてきた性のようなものがあり、ごくみじかいものであっても自分の意識のうごきをネット上にひっかき傷のように残しておきたいという衝動があるのだと思う。 しかしむかしのような強い感情をネットにぶつけようという気分はなくなっており、ネットに残すのは気がつかなければ聞くこともできないほどちいさなつぶやきだけになっている。 それでもいくらかのよろこびがあるのは、そこにかすかではあるが今があるからだ。 今にふれているという、ほとんど妄想ににた意識。 どんなささいなことであれ、それをネット上の文字に置き換えるというのは一種のトレーニングだと思っているのは、わたしにとってのネットはずっとそのように機能してきたからだ。 facebookもその意味ではこれまでに経験してきたプラットフォームとおおきなちがいがあるわけでもない。特にひどいとは思わないが夢のようにすばらしくもない。そこに、とりたててすばらしいわけでもない庶民としての日常とそこでのちょっとした心のうごきをみじかい文章で書きとめる。 こういうとずいぶん否定的でシニカルに聞こえるかもしれないが、断続的であれ書くことをやめていないのは、わずかではあっても意味が見いだせているからにちがいない。 人間はどんなささいなことであれ、それによって日々を刻む感触をたしかめることができる。facebookはそういう日々のよすがのようなものかもしれない。 facebookをみていると、これはわたしの周囲だけの傾向かもしれないが、ネガティブなことを書くひとはあまりいないような気がする。むしろほほえましいこと、うれしかったこと、ささやかな自慢などが開陳される。 世界のどこかから電報で I am still alive というおなじ文面をおくりつづける、河原温のよく知られた作品がある。 facebookをみながら、ああ、なるほど、これは大衆にとっての I am still alive なんだなとわたしは思うのだ。
blackberry9900をつかいはじめて5日。
実につかいやすい。 これまではiPod touchとの併用でblackberryの弱いところを補ってきたのだが、iPod touchは出番が目に見えて減った。これ一台でもなんとかいけるかなと思わせる仕上がりになっている。 これまでのblackberry9000の一番弱いところはウェブ閲覧だったが、9900になってからブラウザの動作が満足できるようになったし、画面がすこし大きくなり、タッチパネルになり、かつ精細になったのもいいかんじだ。トラックボールから解放されたのもおおきい。 全体に処理がおそかった9000よりもだいぶはやくなり、特にEPWING辞書についてはデータを内蔵メモリに移した結果、検索がめざましく改善された。 また、これまでの9000ではちょっとアプリを入れただけでもメモリの残量を気にしなければならなかったが、それも解消された。このあたりもストレスフリーになった。 画面が4インチ超のスマートフォンが増えているいま、3インチに足りない画面の大きさに文句をいうひとが多いのは理解できるが、使ってみると、前面に物理qwertyキーボードを配置したこととのトレードオフでこの画面サイズになったことは納得できる。 逆にいうと、それくらい前面qwertyが好きかどうかでこの機種の評価がきまるわけで、結局、スマホで文字をたくさん入力したいかどうかが分かれ道ということだ。わたしの場合はスマホで物理キーボードで文章が書きたいのでこれをえらんだ。それこそこれで100枚くらいの文章を書こうかといういきおいだ。キーボードの質もいいようで、とても打ちやすい。 実際にはスマホで大量のテキストを入力するニーズはほとんどないはずだし、おそらく入力データは減っている。たとえばタッチパネル入力の普及によってメールの長さはますます短くなっていくだろう。もっともこういう状態は音声入力などほかの入力手段によって変わるかも知れない。 不満な点は、やはりバッテリの弱さにつきる。対策としては予備のバッテリを用意しておいて交換するという運用より、モバイル電源で補うほうがいいと判断して、わたしの場合はpanasonicのモバイルブースターを持ち歩くようにした。しかし軽い使いかたならば朝から夜まではもちそうで、いまのところモバイル電源の出番はない。 一方、これまでのblackberry9000は置き台を自作してデスク上の時計、音楽プレーヤー、ラジオになった。9000のスピーカーはありえないほど音がいいので、こういう用途にはぴったりだ。 ビデオクリップを見たり、フォトフレームにするのもいいだろう。 工業製品としての9900はこれまでゆっくりと長い時間をかけて成長してきた従来型のblackberryの最終形、完成形だという印象だ。よくもわるくも成熟していて、その成熟した雰囲気を楽しめるかどうかで評価が決まるだろう。個人的には前面物理qwertyという形式にはまっているので、blackberryをあと何台かは輸入で追加したいと思っている。
青梅新町の大井戸(青梅市)。
[RICOH GR Digital]
五ノ神まいまいず井戸(羽村市)。
[RICOH GR Digital]
渕上の石積井戸(あきるの市)。
[RICOH GR Digital]
きのう、やっとのことで、Blackberry9900がやってきた。
なんだかんだで半年くらいも待っていたといっていい。 以前、ドコモスマートフォンラウンジで触っていたから、はじめて触る感激はなく、セットアップもとりたてて問題もなくすんですぐに使いはじめた。指摘されているバッテリーの問題(いくらももたなそう)以外は使い心地も良好だ。 わたしの場合は9000との比較になるが、まず、全体的に処理速度が向上した。 ウェブをみるのにストレスがなくなった。メモリが増えたのでアプリをインストールするにも気をつかわなくてもいい。マイクロキーボードは9000よりも広く軽くなり、打鍵がさらに楽になった。タッチパネルも使いやすい。 きょう体はうすく、うすすぎる気がしないでもないが、しっかりしたつくりは9000とおなじ。 わたしの場合、いまはiPod Touchとの組み合わせで使っているが、このコンビでいまのところなんの不満もない。外での回線はIIJ mio /Dサービス(まだ導入していない)とWiMAXを組み合わせて利用していくはずだ。 バッテリー問題については、とりあえずは補助電源でいくことにして、買いたくはなかったが、無線充電対応のパナソニック版モバイルブースターの5400mAhのを買った(9900との相性問題があるそうなので)。 それにしても、これもおそらくそれほど売れないのだろう。なんとももったいない。
自転車で旅をしてその記録を本にするというのは旅行記のひとつのジャンルとして確立しているが、カンボジアの自転車旅行記というのはこれまであまりなかったのではないかと思う。
その理由だが、ひとつには、ポルポト後の治安の問題があった。 1990年代のおわりまでは、いなかに行くのは、場所によってはかなり危険をともなうとかんがえられていたし、2000年代に入っても、なにやら危険な雰囲気は残っていた。 しかし地方のこういう怪しい雰囲気は急速に消えていき、それにともなって旅行者の行動範囲はひろがっていった。 「カンボジア自転車旅行」(平戸平人著、連合出版)という本は、そういうカンボジアをめぐる変化を背景にしているのだと、感慨ふかくわたしは読んだ。 かつてわたしが訪れたときには相当の緊張を強いられた場所が、時をへて平和な場所へとかわっていったことが、この本を読んで実感できた。 著者は勤務していた会社を退職してから突然のようにインドシナ半島の自転車での旅をはじめている。それまでに自転車での旅に習熟していたのではないところがおもしろい。 旅の日程や毎日のできごとなどがことこまかに書かれているし、巻末にはカンボジアを自転車で旅するにあたっての心得もあるから、自分も自転車で旅行してみたいとかんがえるひとには参考になるだろうし、カラーとモノクロの写真や地図もたくさん掲載されているからそれだけでも楽しめるだろう。 ところで、わたし自身はカンボジアを自転車で旅行したことはないのであくまでも憶測にもとづいて書くのだが、この本を読んで自分もおなじように自転車で旅行をしてみたいというひとは、そうとうに慎重に具体化したほうがいいと個人的には思う。 パッケージツアーや比較的無難な個人旅行ならば目的と結果はおおよそ想像がつくけれども、自転車で、しかもひとりで、ふつうの旅行者のいかないようないなかまで入り込んでいくとき、なにが起きるかは予想がつかない。著者は結果としてうまくやりおおせたわけだが、不確定のパラメーターがおおすぎる旅のスタイルであるのはまちがいなく、そういうときに自力で対応して解決できるかどうかが鍵になるはずだ。 カンボジアが今後経済的に発展していくのはまちがいなく、それにともなって地方も開発が進んでいくはずだ。この本に書かれているようないなかの情景やひとの生き方も、あっというまに変わっていくにちがいない。そうかんがえると、本書が書かれた時代のカンボジアの記録として価値が出てくる時代は意外にちかいのではないかと思った。
このブログのサブタイトルにもなっている「神は細部に宿る」ということばについては、いつだか忘れるくらい昔から気になっていた。
このことばから発せられる雰囲気というか香りというか、謎めいた空気がすてきだと思ったけれども、いまひとつよくわからない。その真の意味の周囲を旋回しながら、結局のところよくわからないのだった。 だがそういう状態でながい時間が経つうちに、この「神は細部に宿る」ということばについて、いろいろな角度から、自分のできる範囲で探索を本格化させてみたいという気分がすこしずつ強くなっていった。 そしてある日、このテーマについてのフィールドノートを用意していた。このなにげないできごとは、何年かかるかわからないにしても、このテーマの探索をつづけていっていつかは本にまとめるという作業を自分に課したことを意味している。 文章を書くうえでのこれまでのさまざまな失策からまなんだので、焦ってはいけないと自分に言い聞かせる。先走り、結論を急ぎ、とりちらかった短文を生産しつづけても結局うまくはいかない。時間はたっぷりあるわけではなくてむしろその逆だが、だからといって急ぐわけにはいかない。 まずはかんがえる材料を集め、それらの量を増やし、またなんらかのひらめきを生みそうな場所に適当な時期にいくことにしよう。 このように書くということは、ようするに自分を追い込むということだし、自分が書くことを決めたことの確認でもある。 さて。
DoCoMoがBlackberry9900を発売するのを何ヶ月も待っている。
blackberryがマイナーな存在である日本のユーザーの悲哀をたっぷり味わっているわけだ。 たぶん2月末か3月のあたまには出てくるようで、そうかんがえればあと1ヶ月を楽しんで待つのが精神衛生上もいいにちがいなく、Amazonのサイトをさまよってはアクセサリー類を物色して時間をつぶしている。 9900の充電用ポッド、予備のバッテリー、携帯用の充電器、バッテリドアなどを吟味しては買い物リストに登録する。アメリカではこういうアクセサリーは種類もずいぶんあってその質もいろいろのようだから、サイト上の情報からなんとか良質のものを選び出そうとしている。 9900が来ればいま使っている9000は退役するけれども、まだまだ使おうと思っている。退役軍人としての老後が待っているわけだ。 具体的には家におきっぱなしにして(ポッドにいれたままで)、WiFi経由でインターネットラジオ、辞書、フォトフレーム、置き時計、音楽プレーヤーとして使ってみようかと思っている。それにあわせてバッテリドアも新調したいし、くたびれたバッテリーも新しいのに換えておきたい。 あれやこれや、Amazonで買うべきものがあるわけだ。 そこまでして準備したいのは、やはりBlackberryというデバイスが気に入っているからだ。 ここ1年半ほど使ってみて、予想通り入力がしやすいことがどれほどすごいことかを思い知った。結局のところ、自分から発信してなんぼということだ。情報を消費するのはうんざりであり、いかにへぼくとも生産して提供すべきなのだ。フルタッチのデバイスなどみんなまとめてくたばれという思いだ。 というのは半分はウソであり、実際にはBlackberryのマイクロキーボードに最高の星5つを与えるとしても、フルタッチのiPod touchとのコンビネーションで使っている。見る/読むのはiPod touchで書くのはBlackberryというフォーメーションでいっているわけだ。 現在のところ、この組み合わせはかなりいい。 それにしてもiPhone/iPod touchの3.5インチという画面サイズは絶妙だと使ってみて思う。必要にして最小の画面サイズ。これ以下ならばマニアックになる。このサイズを割り出したアップルはやはり只者ではない。 Blackberryは滅びるのかなあと他人事のように思う。 次期の主力になるのかもしれないコードネームLondonのデバイスはなんの魅力もかんじさせないフルタッチのデバイスだ。前面にマイクロキーボードを載せたデバイスは画面の大きさに制約をうけるから、どんなにがんばっても3インチがいいところだ。これではiPhone/Androidには勝てないと誰もが思っているのだろう。 個人的にはきょう体の大きさを変えずに画面が3インチになるだけでタッチスクリーンを持つデバイスとして成立すると思うし、そこがひとつの到達点だと思っている。 だがRIMはそうはかんがえない可能性が高そうだ。 その結果、前面キーボード型のBlackberryは滅亡がちかいといううんざりするような結論が導かれる。 実際にはどうなるのだろうか。 すくなくとも9900で今後の2年はいけるだろう。その先はまだかんがえてもしかたがない。 できることなら前面キーボード型のBlackberryをやめないでね、RIM。
国立社会保障・人口問題研究所という機関が今後の日本の人口の推移に関する予測を発表した。
2060年、つまり半世紀後の日本の人口とその世代別構成などを推計している。ここまではまあ科学的な作業であって、それなりに将来を予測しているということだと思う。 報告書の本体では、平成22年の国勢調査の時点で1億2800万人だった日本の人口は、2060年には8700万人を切ると予測されている。 ところでこの本体のあとに付け加えて、おまけのように控えめにもうひとつの予測が載っている。 2110年までの推計値、つまり100年後までの予測である。 こっちのほうは予測としては精度が落ちるのは自然のなりゆきで、100年先なんてパラメーターが多すぎて手に余るからほんの参考ですよというのが伝わってくるけれども、これによるといわゆる中位推計で2110年における日本の人口は4000万人をすこし超える程度ということになっている。 2060年の8700万人でさえ大変な減少なのに、2110年にはわずか4000万人。 ざっくりいって、50年後には現在の3分の2、100年後には3分の1にまで日本の人口は縮んでいくわけだ。 これはちょっとすごい。 4000万人の人口で、しかもその4割を65歳以上が占める100年後の日本は世界の中でどんな国として存在しているのだろうかとかんがえるとぞくぞくしてしまう。 そもそも独立国家として存続しているのだろうか。 アメリカはすでに衰退してしまってあてにならず、インドとともに世界の二大強国である中国の傘の下でかろうじて生き延びているのだろうか。 暗澹たる思いだ。 これでは国としてもたない。 その暗い未来に向けて、それほど深刻に思い煩うこともなしに日々をそれなりに楽しく送りながら、われわれは時代のジェットコースターに乗って突き進んでいるわけだ。 人口の問題というのは巨大な船の舵を切るようなもので、そのベクトルを急に変化させることはできないから、日本の人口の減少はまず避けられないのだろう。ゆっくりと衰弱していく老人のように日本はゆるやかに死んでいく。 人口減少の危機のなかで、中国や東南アジアから若年層の移民を受け入れるということが行なわれるかもしれない。 4000万人の若い移民を受け入れれば日本の若返りは一挙にすすみ、活力をとりもどすだろうが、一方で日本に住むひとの半数は中国か東南アジアからきたひとびととその子孫で占められるようになり、日本人という民族そのものもおおきな変容をとげることになる。 しかし高齢化が急速にすすんでいる中国は、その頃には若い移民を日本に供給する力がなくなっているかもしれない。すると頼りはインドだろうか。妄想はいくらでもふくらむ。 何十年か前にヨーロッパで街をゆらゆらと歩いてく老人たちをみながら、彼らはずいぶん衰退してしまったんだなと思ったものだ。その頃の日本はギラギラしていたがヨーロッパはすっかり枯れてみえていた。 しかし結局、問題は日本のほうにあったのだ。 さて、どうしたらいいのだろう。 現実的にかんがえれば、まず、未来予測などあたったためしがないと切って捨てることもできる。 そのうえで、結局われわれにはできることしかできない、国家の運命は常に歴史の腕のなかにあると覚悟を決めて生きていくということかもしれない。 日本という国家はいまや実に頼りないし、誰が将来を見透して舵を切っているのか、あるいはなにもしていないのかさえもわからない。たぶん舵は誰の手のなかにもないのだ。いやー困ったもんだね、日本はだめだねとかいいながら結局、自分も見物する側に座っている。 生存の瀬戸際で呻吟するまでにはまだすこし時間があるようだ。 週間アスキーPLUSでで「iPhoneのホームボタンを使わない方法」というのが紹介されていたのでさっそくやってみた。ただしわたしの場合はiPhoneではなくてiPod touch(4G)。記事はこちら。 くわしくは記事を読んでほしいのだが、ようするにiOS5を載せたiPhone/iPod touchでホームボタンを押すという動作を極力抑えた操作が可能になる。 この設定をすると画面には小さな白い丸が常時現れるようになり、どの画面からでもこの白い丸を押すと4つの動作を実行できるメニュー画面が出てくる。そのなかにあるホームボタンにタッチすると、物理ボタンに触れずにホーム画面に復帰できるというわけだ。 この操作方法はハンディキャップを持つひとのために(つまり物理ボタンを押す操作がしにくいひとのために)実装されたらしいが、やってみてこれはずっと使っていこうと思えるような快適さだった。 もちろんひとによって感想はちがうとは思う。 個人的にはiPhone/iPod touchの物理ボタンを押しこむかんじがあまり好きではない。壊れそうな気がするし、力もかかる。なんとなくiPhone/iPod touchの操作体系から浮いているような気がする。 一方、この操作(AssistiveTouch)はスムーズだ。ほぼ画面をタッチする操作だけで完結できる。 ただしその代償として操作には手間がかかる。 画面にあらわれている白い丸は移動できるが、ひとによってはわずらわしくかんじるだろう。ホームの物理ボタン3回押しで消すこともできるが、それも面倒だ。さらにこの白い丸を押して現れる選択画面からホームへの復帰アイコンにタッチしなければならない。 しかしすぐに慣れた。 画面に常駐している白い丸を動かしてはじゃまにならないようにする→白い丸を押して操作画面を出す→ホームへの復帰アイコンを押す、という一連の操作がすぐに苦にならなくなった。 なによりも操作がなめらかなタッチだけで完結するのが快適だ。 こういう操作が可能であることをこれまでまったく知らなかった。週間アスキーPLUS、よくやった。
Google+のAKB48をフォロー中。
現在フォローしているのは一部のメンバーだけだが、それでも彼女たちの意識や存在のしかた(らしきもの)は伝わってくるし、ほとんど答は返ってこなくともコメントのかたちで関わろうとするたくさんのファンの思考や行動が垣間見えてそれもおもしろい。 基本的にはおなじ時間を共有したいという意識。その意味ではコメント欄は多分にチャット的だ。深夜に同時間を生きるために睡眠時間を削り、睡眠不足で朝を迎えるファンがすくなくないにちがいない。 AKBのメンバーが終日、ほぼリアルタイムで行動の報告を書き込み、それにファンがコメントする。かんがえてみるとこれはかなりすごい。 彼女たちは舞台から降りてもファンの目にさらされている。そういうなかで、Google+上にもうひとつのAKB劇場が生まれ、まさに劇場型の空間が形成されてきている。こちらの劇場はいうなれば楽屋裏だが、外部に露出しているから表ということもできる。 ところで、こちらの劇場には台本がなく演出もないから、そこが危うい。 多数の十代二十代の女の子たちが自由に書きこむなかで、なにか起きるかは本当のところはわからないし、ちょっとしたことであっても大事になる危険性が内在している。 携帯で撮った写真をメンバーがアップロードするとあっという間に4万5万のアクセスがある世界なのだ。 最近はGoogle+上でのAKB関連の動き(具体的には秋元プロデューサーの発言とか)を報道に載せる大手メディアも出てきている。 そればかりでなく、無数のマスコミ関係者、いわゆる業界関係者、それからもっともっと怪しい連中までがネタを探してのぞき見しているにちがいない。 彼らがもっとも好むのは下世話なスキャンダルの匂いであり、そこにもっとも簡単にアクセスできるチャンネルとしてGoogle+のAKBが認知されているということだと思う。 Google+自体が危うい世界であるとは思わないが、AKBであるからこそ危うい。そういう場の緊張感はなかなかだ。しかしメンバーの彼女たちはなにも知らないふりをして無邪気なやりとりをつづける。そのあたりがどの程度意識されているかは、外から見たかぎりではわからなかった。 Google+上のAKBコミュニティからはまだスキャンダルは起きていないし、場の破綻も衰退もかんじられない。なにしろはじまったばかりなのだ。 しかしハラハラする。先はわからない。これからなにが起きるのだろうか?
ある薬を短期間だけ服用した影響だと思うのだが、一時的に猛烈な食欲にとりつかれたようになった。
わたしの場合、ふだんの食生活はだいたいつぎのようなかんじだ。 朝起きて普通に朝食を食べる。パンとサラダとスープというような内容で比較的軽い。和食の場合もあるが軽めだ。 本当は重い朝食が好きで、とんかつだろうがうなぎだろうがOKで、むしろそういうのが好きなのだが、出されたものに不満はない。 ふつうなら次は正午あたりに昼食にする。重いことも軽いこともある。量は成人男性としてはすくないほうだろうと思う。 夕食は、時間は日によってちがう。六時から九時のあいだというかんじだろうか。米はふつうの茶碗に一杯程度しか食べない。 ところが、薬の副作用はすごかった。 ある日曜の場合はこんな具合だ。 七時、出された朝食を食べる。 だがなんとなく満足感がないので九時頃にやきそばを作って食べる。キャベツ多めで肉がちょっと入ったシンプルなやきそばだ。 十一時、今度は最近はまっている親子丼をつくる。冷凍してある鶏の胸肉を解凍し、たまねぎを切って鶏肉と一緒にできあいの出汁で煮て、卵でとじるという簡単調理だが、信じられないくらいおいしくかんじる。店で出てくるようなどんぶりにごはんを多めに入れ、たまねぎもたっぷりで、食後には満腹感で陶然となる。 午後一時、小腹が空いたというかんじでポテトチップスとコカコーラ。チョコレート。 午後五時、夕食までまだ時間があるので、お茶漬けをつくって食べた。 そして午後七時すぎ、やっと夕食。食後のデザートにはプリン。 午後十一時、またもポテトチップス。 衝動としての食欲とのはじめての遭遇。暴力的な食欲とでも表現できそうな、自分の食欲を制御できないという状況に直面したのははじめてだったかもしれない。 自分が暴走していることははっきりわかっていた。 しかし異常な食欲の原因が薬にあり、決して心理的な葛藤やそのほかの人間の闇から生まれてくるのではないと知っていたから、そういう状況はながくはつづかないはずだと思い、食欲をめぐる状況はかっこうの観察の対象となった。自分の状態に興味津々だったのだ。 まず、満腹感がない。というかいくらもつづかない。食べた直後はたしかに満足するが、すこし経つと普通の状態にもどり、こんどは空腹へと急降下する。 するとたべることばかりかんがえている。 そして食欲があるだけではない。 なにをたべてもうっとりするほどうまい。ちょっと狂気をかんじるほどだ。実際、みじかい時間であれ、狂気のなかにいたのかもしれない。 なにを食べてもおいしく、それも狂おしいほどにと表現しても過剰ではないほどの食欲にとりつかれたみじかい日々がおわると、食欲はすこしずつ元にもどっていった。はげしい食欲は翳り、色あせ、やがて消えてなくなった。 それからいくらも経っていないのに、思い出してみると、なんだか日差しの強い南の島にほんの何日かだけ行ってきて、その記憶を懐かしんでいるような気分だ。 ところで。 あれは本当に薬の影響だったのだろうか。 きつねがついていたということはないのだろうか。そうかんがえると、あれはきつねだったのかもしれないと思えてきた。
椎名町駅前にあるマクドナルドの2階からすぐ前にある長崎神社を見ていると、ときおりひとが入っていく。
入口にある石の鳥居の手前で立ち止まって、ていねいに一礼してから鳥居をくぐるひとも少なくない。 それも老人ばかりでなく、中年くらいの年齢のひともいる。いや、20代の女性すらきちんと一礼してから入っていく。 日本人て意外に信心ぶかいんだという思いがけない大発見。 というか、オレがとんでもなく不信心ということかもしれない。 神さまはいるんだろうか。 iPhone/iPod touch用アプリではあるが。ニキシー管、このうえなく美しい。
WiMAXをつかいはじめて半年以上がすぎた。
導入前は、はっきりいってそれほど期待はしていなかった。サービスエリアが狭いという印象があったし、無線特有の不安定さも気になった。 しばらく使ってみて、結果としては満足している。速度はばらつきがあるが、おそくて困ったということはない。主に都内で接続しているのでつながらないという場面にはほとんど遭遇しない。仮につながらなければあきらめるというスタンスだ。 使ってみてかんじるWiMAXの最大のメリットは、いろんな意味でのしばりが弱いこと。 契約期間のしばりは、わたしの場合は1年しばりにしてあるが、これは納得できる範囲。そこそこ速度が出て、データ量の上限を気にしないで済むのも精神的にもいい。それと料金と速度のバランスをかんがえると現時点ではいい選択だと思う。 3月にDoCoMoがはじめる128Kbpsのサービスがなんとか使えるようならばWiMAXと組み合わせて使うのもおもしろそうだ。 最近は公衆無線LANサービス、Wi2 300(ワイツー)も使っている。 インターネットラジオが(混んでいるとき以外は)ほぼ聴けるのがなかなか便利だ。 現在は外ではBlackberryとiPodTouchの組みわせだが、いい具合に分業になっている。
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