漂流
何日か前のことである。
本屋で新刊の棚を見ていてふと手に取ったのは「ある漂流者のはなし」という新書判の薄い本だった。何ページかめくっていると次第に引き込まれていった。この本こそ書かれなければならない本であったことが分かったからである。
何年か前、小さな漁船でひとりきりで漁に出た長崎県の漁師がエンジン故障のために漂流し、実に37日目に救助されたという事件があった。この事件のことは鮮明に覚えている。長期の漂流からの生還という事実だけでなく、インタビューへの受け答えからにじみ出る生還者の人間の魅力とでもいったものがあまりにも鮮やかだったのだ。彼が語った「人間て、なかなか死なないものだ」という言葉はその年の流行語大賞で語録賞を受賞したほどに人々の記憶に残った。
しかしテレビだけでなく新聞も雑誌も忙しい。このユーモアと含蓄に富んだ無名の漁師は一瞬だけマスコミを賑わすと、無数の話題の彼方へと退いていった。
私が偶然手に取った本は、そのときの漂流者・武智三繁(たけち・みつひで)さんへの詳細なインタビューをもとに組み立てられ、彼がどのように育ち、どのような仕事をし、どのように漁師となってあの運命の日を迎えたか、漂流が始まってから彼がどのように考え、行動したかを、詳細に描いていた。
ところで、この本を読みながらわたしはちょっと変わった感想を抱いていた。著者・吉岡忍が上手く書こうとしていないように感じられたのだ。どちらかというと乱暴に書いている。事実やことばを読者の前に投げ出している。それには意図があるはずで、その意図なるものがあるとすればそれはインタビューを行った相手から受けた啓示にちがいない。
メディアにはそれぞれの役割がある。テレビは先走ってショッキングな映像とことばの断片を並べ立てる騒々しいニワトリである。新聞は犬だ。すこしは落ち着いているが、獲物のありかをすぐに忘れてしまう。
事実と長い時間向き合い、詳しい報告を書くノンフィクションライターは生産性が低く、雪崩打つ事実と事件のうちのひとにぎりすら明らかにできない。
いつだったか、私は武智三繁さんについての情報を求めてインターネット上をさまよったことがある。しかし地元新聞に載った比較的長文の「漂流記」を除いては彼の全体像を知りうる情報は見当たらなかった。
この本を読むと、テレビと新聞が事実をどのように切り取って報道する性質を持っているか、これに対して事実そのものがどんな性質と量とを持っているかがわかる気がする。事実に深く降りていって真実のあたりを渉猟するということがどういうことなのかが分かる気がする。
もうひとつの感想は、結局のところ誰にも知られないで死んでいく大衆というもののひとつの相についてである。長崎県の小さな漁港から出て行って岸からそれほど離れていない海で、小さな舟で漁をする零細な漁民であった彼は、学歴も職歴も庶民そのものだった。しかし彼のことばは常に真実のそばを徘徊する。これこそが真実なんだと思い込みそうなほど深い。しかしおそらく彼はそれを朴訥な言い方で語ったにちがいない。
彼を通じて、作家の目に触れることがなかったために書き留められることのなかった無数の庶民の思考と行動、書かれれば同じように感銘を与えたに違いない彼らの思考と行動があったのだと分かる。
書き留める側に立つことの意味を改めて考えさせる幸運な読書だった。
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by hatano_naoki | 2005-06-27 19:50 | 日日
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