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一枚の写真
最近印象に残った一枚の写真のことを書きとめておきたい。
それが撮影されたのは2011年3月11日、場所は南三陸町の防災対策庁舎屋上。あの大地震の引き起こした津波がしだいに盛り上がって3階建のビルの屋上にいる撮影者とおなじ高さになり、ついには撮影者を押し流そうとする瞬間をとらえている。波頭は勢いよく屋上の手すりを乗り越え、いまや屋上の全体が波の下に隠れようとしている。
写真は足下ちかくからはるか遠景までをとらえているが、見渡すかぎり一面が水。このとき、建物のある地域の全体が3階建のビルよりも高い津波の下にあった。
撮影者はこういう状況に実際に出会い、そこにいて津波の来る方向にカメラのレンズを向け、やってくる津波をとらえるためにシャッターボタンを押しつづけていた。
写真をみながらことばを失い、すこしの時間だが息を詰めていたことに気がつく。何度もため息をつき、しかし写真をみつめることしかできない。胸の奥がかたい。

スマトラ沖地震のとき、津波の映像はいくらか見たけれども、個人的には津波の恐怖をかんじさせるほどの映像は見たおぼえがない。この災害では20万人以上が死んだが残された映像記録は少ないらしく、津波で集落が流されたあとの様子から津波そのもののありさまを理解するには想像力が不足していた。
それ以前には、秋田のどこかの海岸で撮られたものだったと思うけれども、津波が押し寄せる様子を見たことがある。海の一部が白い波をともなって持ち上がっていたような記憶があるがはっきりしない。それが津波だといわれても正直いってぴんとこなかった。
今度の地震では大津波のありさまが写真や動画で(そのうちの相当数は携帯のカメラで)記録された。巨大津波の記録映像がこれほど多量に一般のひとびとによって残されたのは歴史上例がないはずだ。
そしていまやわれわれは大きな津波とはどんな存在なのか、どのような大きさでどのように動き、それが引いて行ったあとにどのような風景が現れるのかをていねいに学習する何百年の一度の機会に否応なしに遭遇することになった。
それまで津波の姿はみたことがなかったといっていい。
津波とは「持ち上がった海」であって、それがきわめて長い波長を持つ波となってすごいはやさで進んでくる。陸地が近づいて水深が浅くなると速度が落ちる一方で波頭は急に高くなり、陸地に押しよせる。
そういう図式的な理解はしていたものの、奥尻島を襲った津波では谷筋を海抜30メートルほどのところまで駆け上がったといわれてもその具体的な映像を思い描くのはむずかしかったし、この津波が深夜だったこともあって映像記録を見たおぼえはない。つまり大津波とは具体的にはどういうものか、よくわかっていなかった。
大きな津波がくる可能性にどれほどの恐怖心と警戒心を配分すればいいのかについても真剣にかんがえていたわけではない。海岸ちかくに住んでいるわけではないわたしには大津波そのものが抽象的な存在だったわけだ。
ところがあの大震が起きて最初の1ヶ月は朝から晩まで津波の映像を見つづけることになった。それはテレビに映る映像にすぎず、指や皮膚で触れられる現実とはちがっていたけれども、それでも伝わってくる過剰な恐怖があった。

今度の地震で起きた津波の記録映像の多くは避難した高台ややや安全なビルの上から撮られたもので、いわば遠景として記録されている。ところがわたしがさきほど説明した写真は津波の中に孤立して島のようになったビルの屋上で、つぎの瞬間には撮影者が押し流されたほどの緊迫した状況下で撮られている。実際、屋上にいた30人のうち生存者は11人にすぎないという。町役場の職員だという撮影者はいったん流されたものの、近くにいた副町長につかまれて生きのびた。
こうして彼のデジタルカメラは水没はしたが手元に残り、データもかろうじて残った。それで撮影者とともにデータもこちらがわに残された。ほかにもぎりぎりの瞬間を記録したあとで失われたたくさんのカメラがあったにちがいないが、それらは撮影者の生命とともにあちらがわにいってしまった。そういう意味ではこの写真は境界をさまよっている。わたしがいま見ることのできるこの1枚の写真が写しとっているのは、もしかしたら生きている人間には見ることができなかったはずの光景だ。あるいはあちらがわにいったん行ってしまったあとで、神さまの気配りかなにかで引き返してきた人間の記憶そのものが写されている。

朝日新聞記事
by hatano_naoki | 2011-06-04 09:09 | 日日
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