ラジオ・エチオピア
恋愛小説をずっと読んでいなかった。
もともと嫌いなのだ。架空の恋愛物語に感情移入しても時間の無駄ではないか。
それがどういう風の吹き回しか、一冊の恋愛小説を読むことになった。きっかけは相変わらずの偶然で、本屋でたまたま目に付いたのはその奇妙なタイトルのせいに違いない。
「ラジオ・エチオピア」。
それがニューヨーク・パンクの女王と称されるパティ・スミスのセカンド・アルバムのタイトルあることを知らなかった私は単に奇妙な単語の組み合わせと音としての響きに興味を持ってその本を書棚から抜き出したのだが、数ページ読んだあと、その本が傑作であるかどうかは別にして最後まで読もうと決めていた。
著者は蓮見圭一という人物だが、覆面作家であって正体は不明であるらしい。

メディアはその登場の時点ですでに自らその行く末を暗示しているし、最初のユーザーの一群が利用技術のあらゆる可能性を検証しつくす。
ネットワーク・メディアの恩恵に負う恋愛はすでにパソコン通信の登場した時点で始まっていたし、そこでの恋愛はメディアの特性に色濃く影響を受けていた。メディア上での恋はメディアの実現するコミュニケーション速度によって加速され昂進する。メディアの作り出す相手の残像は直接脳髄に焼きこまれるかのようだ。
男と女が出会ってインモラルな恋が始まるとき、メディアは彼らの味方である。恋が高揚し持続するとき、メディアは彼らの後見人である。恋が破綻するとき、メディアは彼らの検察官であり死刑執行人である。

「ラジオ・エチオピア」を読みながら私は自分がネットワーク上でコミュニケーションを始めた頃を思い出す。それまで見たこともないメディアであるメールには輝きがあり、誘惑的で、ときとして背徳的でもあった。緑色に輝くCRTモニターの前で過ごしたいくつもの長い夜、メールはことばを輝かせ、ことばが道具で武器で、ことばの貧しい人間は生存できない過酷な世界が広がっていた。
無数の恋愛事件が起きていた。それらはときとしてメディアの力を借りて交錯し状況をさらに複雑にする。
その頃、私は「メディア・ラブ」というタイトルの短い物語を書いた。ネットワーク上で出会った男と女の話である。当時の私はあまりにもこの新しいメディアに中毒していたために、間違ってメディアを主人公にしてしまったのだった。

小説「ラジオ・エチオピア」の主役はメディアではないが、メディアの特性はいやおうなく彼らの恋愛のスタイルとプロセスに影を落とす。
家庭ごとに一台の黒い電話があった時代にはこの恋愛は存在しなかったが、むしろそれ以前、手紙だけが存在した時代には存在しえたかもしれない。コミュニケーションの速度に雲泥の差があるにせよ、書き言葉が恋愛の神となるという意味ではそれほどの違いはない。
電子メールの時代は歌垣が生きた時代の再現といえるのかもしれない。
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by hatano_naoki | 2005-08-08 23:23 | ネットとデジモノ
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