JAL123便の夏
バンコク中央駅のすぐ西側をスリクルン運河が南北方向に走っている。
その運河に面して立つ古いホテル、クルンカセム・スリクルンの一階にある食堂で朝食を食べていると、天井からぶら下がった17インチくらいのテレビに航空機事故のニュースが映し出され、やがてそれが日本での事故であるらしいことが分かってきた。
それがJAL123便の事故を知った瞬間である。

1985年8月はじめ、会社勤めを辞めた私はタイへの旅に出た。バンコクに到着して最初に滞在したのはチャイナタウンにあるホテルだったが、それからタイ北部を歩き、バンコクに戻ってきて泊まったのがクルンカセム・スリクルンである。ホテルとしては中の下くらいの位置づけだっただろうか。部屋が広いのだけがとりえで、窓からは中央駅のカマボコ型の屋根がよく見えた。
当時のバンコクは高層ビルの林立する東京に似た町ではなく、焼けたアスファルトの上をトゥクトゥクがみずすましのように走り回り、いかがわしさと活力のいりまじった濃厚な雰囲気を残していた。タクシーもコンビニもスカイトレインも地下鉄も定価販売も存在しなかったが、タイはまちがいなく経済的離陸の前段階にあった。

タイ語のニュースではJAL123便の事故の詳細はわからなかったのでもっぱら映像をみていた。ひどく破壊された機体の状況が延々と映し出され、少女が自衛隊員にしっかりと抱きかかえられてヘリに収容される映像が印象的だった。結局、私がこの事故の全貌を知ったのはその月の終わりに日本に戻ってからだった。

JAL123便の事故はさまざまな意味で航空機事故の悲惨を体現しているが、私はボイスレコーダーに記録されたパイロットとコパイロットの会話を聴くとき胸がつぶれる思いがする。彼らはそれまでの経験から搾り出したあらゆる操縦技術を駆使して、コントロール不能となった機体を実に30分以上も持ちこたえさせたのだ。
しかしやがて機長はこうつぶやく。
「これはだめかもわからんね」と。
その声の冷静さに旅客機のパイロットとしての矜持を感じたのは間違いだっただろうか。
それから更に10分の間、機体は飛び続けた。

(追記)
未確認だが、ボイスレコーダーは墜落直前の「もうだめだ」という叫びを記録しているという。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-12 07:34 | 日日
<< さびしい記念碑 大平建築塾 >>