規範と大義~ダンディズムについて・その2~
むかしこんな文章を書いた。タイトルは「規範と大義」である。



しごと部屋にいて、外気は冷たい冬だが太陽は明るく部屋は暖かい。
わたしはひとりで、はげましと叱責は内部から滲み出してくるだけだ。わたしはとことん自由でありまた閉じ込められている。

何年かぶりに昔の友人に会いホテルのバーでカンパリを飲みながら話した。姿かたちはほとんど変わっていない。なんとなくホッとする。しかし実際には彼もわたしも確かに変わっているに違いない。
まっとうなサラリーマンとしてのキャリアを積む彼と塔の上にひとり住む男のようにして生きているわたしとはものの見方が違って当然なのだが、その違いはたいして気にならない。
ひとしきり話題になったのはかっこよさについてだった。
かっこよく生きるのが一番だということで意見が一致した。かっこよく生きることは自分の基準にてらしての話だ。基準がなければならない。「つまり、…規範と大義だな」とわたしが呟くと彼はそうそうと相槌を打った。
規範というものはスパイ小説や探偵小説の主人公たちにはなくてはならないものである。危険への対処、判断の基準、自分の生き方。規範を持つということはカッコいい男になるための前提条件であるとスリルに満ちたストーリーを追いながら思ったものだった。
ひとりで部屋にこもって仕事をする時、ではどんな規範が要求されるのだろうか。早起き鳥のように起き出して決められた時間に路上に走り出ることか、機械のひとつひとつに名前をつけて呼びかけることか、しごとを始めるとき必ずある呪文を唱えることか。
わたしのひとりのしごと場は実は孤独ではない。むしろ饒舌であるといっていいだろう。ひとりでいるのは確かだが、電話がかかって来る、ファックスが紙を吐き出す、電子メールが次々と到着する。ドットプリンターが騒音を撒き散らしレーザープリンターが考え込んでは印字を繰り返す。
こんな生活をはじめて(正確には始めようとして)7年が経っている。朦朧としていた世界は次第に姿を現し始めた。それはかつて会社を辞める時に遠くに見ていた星雲のようなものだ。1985年頃、小企業のささやかな管理職であったひとりの男が人生の折り返し点に到達したと感じて将来のことを考えていた。そこで得た結論は自分が本当にやりたいことをやるのだということだった。自分をあるイメージの長い影に向けて投げ出すことをやるのだ。崖の縁に立って下を見下ろすような気分だった。
ひとりの規範、ひとりの大義。自分を鼓舞するのは自分、自分を叱るのも自分…。ひとりのしごと場でときたま考える。自宅をしごと場に選んだのは間違っていなかった。なにかある見えないものがわたしに教えたのだ、ホームワーカーとして自分を規定してみたら?と。
しかしその「なにか或る見えないもの」はまだ正体を現さない。わたしの規範への憧れはその不明の正体の回りを哨戒機のように周回する。
更にその規範の拠るところ、わたしの大義とはなんなのか。大義とはなんとおおげさなことだ。だがわたしたちが生きていくとき明快な生きる原理原則が欲しい。それを大義と表現しただけのことである。
家にいること、家族と混じり合って仕事をしていくこと。ささやかな選択だったがその結果わたしの人生は大きく旋回して行った。どちらの方角へ?自らの規範を作り出そうとする行動の方角へだ。そこでわたしが目安をつけたのはネットワークという言葉である。この言葉はなかなかに響きがよく長持ちしそうな概念のようだ。それにすがって生涯を過ごしてもいいように思えた。
何年ぶりに会ったからといって深夜まで大声で叫んで飲んだくれるのは「かっこよくない」。3時間ほど話したあとでまた会おうと約束して別れた。時を隔てて会った時に交わす会話は航海の報告に似ている。航海の日誌を繰りながらそれまでの何年かを手短に報告しあう。そのような時間は人生の中でたびたびあるわけではないが、なかなかいいものだと思った。ほろ苦いその味はカンパリの余韻だったのかも知れない。



この文章はダンディズムについて書かれたものではないが、規範と大義がダンディズムの拠るべきキーワードであるという点で私が考えるヒントを提供してくれそうだ。
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by hatano_naoki | 2005-12-05 14:05 | 日日
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