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沖縄勉強ノート(14)斎場御嶽<再録>
沖縄勉強ノート(14)斎場御嶽<再録>_d0059961_965231.jpg以下の文章は私のウェブサイトのひとつ、時空書房(休止中)に書いた文章の再録である。

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夕暮れの新宿南口の階段脇で2人の青年が路上ライブをやっていた。
珍しいことに彼らが奏ているのは沖縄の旋律だ。先を急ぐ私はそこに立ち止まらなかったが、ゆったりとした流麗な響きがいつまでも耳の中で聞こえている。
新宿の雑踏の中で沖縄を思い出していた。
私の沖縄体験はごくわずかだが、訪れた数少ない場所のひとつが斎場御嶽(せーふぁうたき)である。斎場御嶽が琉球王朝にとって宗教上最高の聖地であったことはよく知られているし、観光地としてもポピュラーだから特別の思い入れがあったわけではなかった。信仰と無縁な生活をしている私にとって聖地とか聖域とかが実際上の意味を持っているとは思えないが、旅に出るとなぜかこういった場所に行きたくなる。

7月のある朝、那覇のバスターミナルから玉泉洞王国村行きのバスに乗った。玉泉洞王国村には大きな鍾乳洞と琉球文化を手軽に知ることのできるテーマパークがあり、なかなか楽しめる場所だ。純粋な観光客となって洞窟を歩き、エイサーの実演やオリオンビールを楽しんだあと、いくつかのグスクを経て斎場御嶽を目指すことにした。
最初の目的地は糸数グスクである。詳細な地図を持ち合わせていなかった私はそこまでタクシーを使うことにした。私が声をかけた運転手はアジア的な好人物だった。私のプランを聞いた彼は、いくらかの交渉のあとで斎場御嶽まで驚くほど安い料金を提示してきたのである。歩いて回ろうと思っていた私は起伏の多い付近の地形を知って車での移動に感謝し、入口さえ判然としないグスク探しにおいて運転手の判断に感謝しなければならなかった。
この日は糸数グスクに始まり、玉城(たまぐすく)、垣花(かきのはな)グスク、知念グスクなどのグスクを歩いた。糸数グスクは高台にあって白っぽい石灰岩のブロックを積んだ城壁の上からは南の海が見渡せた。築城は14世紀といわれている。玉城は原型をとどめぬまでに崩壊が進んでいたが小さな拝所が残っていた。垣花グスクはやぶの中で眺望もなく、状態は悪い。知念グスクはちょっとした公園のような雰囲気で城壁に穿たれた門は上部がアーチ状になっており、異国の匂いがする。築かれたのは15世紀頃らしい。
グスクは琉球石灰岩を積んで作った石垣をめぐらし、その内部に聖域を持つ。グスクということばには城の字があてられるが、その機能については戦いに備えた山城、防衛的意識で形成された集落、神の降臨する場所と神を礼拝する場所を合わせた聖域、支配者階級の住居などさまざまな説がある。ちなみに沖縄最大のグスクは古都首里にある首里城である。

この日の最終目的地、斎場御嶽(せーふぁうたき)は深い森の中にあった。
タクシーを下りるとき、運転手が「(祭壇にある)ものを持って来ないで下さいね」と念を押すように言った。「誰かが持っていっても必ず戻ってくるんです」。観光客の中にはそういう悪さをする人間がいるのかもしれないが、私が驚いたのは彼の言葉の中に御嶽(うたき)に対する信仰と怖れを感じたことだった。こうした場所に礼拝にやってくることなどないように見える彼の心の奥底のなにかが私に聖域を荒らすなと懇願している。その声が日本から抑圧的支配を受けつづけた祖先たちの悲嘆のように聴こえる。
国家の聖地としての斎場御嶽が成立したのは16世紀頃のことだ。その起源は私には分からないが、古来の信仰を体系化して国家の統制に寄与するべく形成された聖域であることは確かなようだ。成立からいくらも経っていない17世紀はじめ以降、琉球王国は薩摩藩に降伏してその支配下に入る。王国は傀儡となりやがて滅びてゆくが土着的な信仰の本質は庶民の間に持続したに違いない。沖縄は原初的な神と精神の痕跡を残しながらその後の時代にもみくちゃにされた果てに黙示的存在になりえた。そして実は私も黙示的存在になりたいのだった。

沖縄勉強ノート(14)斎場御嶽<再録>_d0059961_973094.jpg斎場御嶽へと踏み入っていく。森の中に幅の狭い石畳がくねくねと続いている。ここは最高位の聖域であって、王族と数少ない祭司以外は来ることのなかった秘められた場所である。その事実がひたひたと押し寄せてきた。観光地になっているのは琉球王国が滅びたからで、いってみれば滅びた日本国の聖地伊勢神宮の奥深く外国人が入り込むようなものだ。
森の中を通過し、聖域の核心部にやってきた。自然の巨岩が張り出しているだけの、いかにも原初の信仰を思わせる簡素な装置である。名前は大庫理(うふぐーい)という。その手前の私が立っているあたりにはサンゴの破片が無数にちらばっている。中年の女性がひとり、祭壇に向かって祈っている。聖域はいまだに生きているようである。
御嶽とは神の降臨する場所だが、基本的になにもない。豪奢な建築も精緻な装飾もない。霊的な雰囲気を感じるが目に見えるものはほぼ何もない。聖域が存在することを知り想像してもいいが、入ることは許されない。そういう場所に来てしまった気がする。暴かれた聖域はなにか無残である。
そこからさらに進むと、巨岩の一部は剥離して海に面した斜面へとずり落ちかけていて、これらふたつの岩の間に三角形の隙間ができている。 その奥にごく狭い空間がある。そこは三庫理(さんぐーい)といい、草と木々の向こうに南の海とそこに浮かぶ沖縄の生誕神話の島、久高島を望む拝所である。遥拝するのは島そのものである。

沖縄勉強ノート(14)斎場御嶽<再録>_d0059961_98473.jpg南の海の果てにニライカナイ(またはニライ)と呼ばれる異境があると沖縄の人々は信じてきた。そこからやってくる神々が豊穣をもたらし、悪しきものが災いをもたらす。ニライからの神や祖霊の降臨を期待する御嶽が海辺や海を見下ろす台地上に設けられたのはこのためである。こうした信仰において久高島はニライカナイへの直接的な玄関口であると考えられていた。
外間守善著「沖縄の歴史と文化」ではニライについて「ニ(根=中心を表わす名詞)」「ラ(地理的空間を表わす接尾辞)」「イ(方を表わす接尾辞)」 と説明している。またニライと常世(とこよ)の共通性は柳田國男や折口信夫を含む多くの研究者が指摘しているところだ。常世は古事記の頃すでに見られる概念で、海の彼方の遥か遠くにあり、そこから豊穣の神がやってくるとされていた。
ニライは必ずしも南にあるとは考えられていなかったようだが、沖縄でも日本本土でも基本的に南の方角に理想郷があるという概念が根強いのはなぜだろうか。

城(ぐすく)と御嶽(うたき)の旅から戻ってくると国際通りの雑踏に身をゆだねた。ゆったりとしてねっとりとした南方の空気がくぐもっている。根源的な霊力と東南アジア的な親和力がこの島を支配している。冷えたオリオンビールが飲みたかった。

(写真上:三庫理(さんぐーい)から 中:御嶽(うたき)に入ってゆく森の中の石畳道 下:拝所の付近にはサンゴが撒かれている)
by hatano_naoki | 2005-12-21 19:29 | 沖縄勉強ノート
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