ブログの現状、あるいは私とブログ(2)
まだこの道具を理解できていないというはがゆさがある。
どんなブログを私はお手本にすべきかと考える。それはお前が創りだすものだ、とは思わない。この世には独創などそれほど多くない。たいてい誰かが先行している。
私はこのブログに対して創作メモのようなイメージを持っているのだと思う。場の認識としては表ではなくウラだと感じており、それがブログのタイトル(密航者という意味だ)に現れている。創作の楽屋裏だが、他人に見られることを意識してもいて、その意味では楽屋とも言い切れない。外部から観察されることを意識している内部。外部に突出した内部の気配。
・・・場は可塑性があるから、想像力で捏(こ)ねてつくる。
そこでは誰が何を言ってもよく、これに対して無視しても反発しても追従してもかまわない。コメントやトラックバックを拒否してかまわない。ブログを道端に置いた小さな演壇にしても、場末の小さな飲み屋のカウンターにしてもかまわない。懺悔室にしても教室にしてもかまわない。毎日どのように過ごしたか。何を食べ、どこに行ったか。読んだ本、見た映画、感動したできごと、がっかりしたできごと。社会の動きを見て、分析して意見をいう。時代を切る。自分の視点を誇る。自分の好きなものや趣味について書く。自分の住んで愛している土地について書く。
そうして自分の意識や思考をテキストで(写真でも音でもムービーでもかまわないが)できるだけ長い期間にわたって記録し続けることで、その時間の長さの奥からやってくるものがある。それに出会えるひとは幸運だ。
実に多くのひとびとがブログに日々書いている。テキストによる自己表現の大航海時代。この航海に出るひとびとの3人に2人は海の藻屑となる。生き残ったひとびとのひとりひとりを15人の天使が見守っている。幸運なひとにぎりだけが新しい大陸を発見する。しかし彼らは黄金を目指して船出したのではない。自己表現の愉悦が彼らを駆り立てたに過ぎない。
書かれたことが本当らしく見えても、何が本当で何がウソかを情報をつきあわせて真偽を検討しなければならない。だから自然と情報に対するシニカルな姿勢が身につくだろう。これはちょっとした成長だ。しかし素直な人たちもいて、彼らの間を曖昧な情報がぐるぐる回るうち、曖昧だったものが真実らしきものに変容してゆく。参照や引用の回数がクセモノだ。
魔女狩りが起きる。鬱屈した言論愉快犯がそこいらじゅうに潜んでいる。
どうにも収拾のつかないネット民主主義の時代。為政者にとっての幸運はブログにおける言論が個人に依存してそれぞれにブラウン運動を繰り返しており、大きな流れになるとは思えないことだが、油断は禁物である。
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by hatano_naoki | 2006-03-11 21:06 | ネットとデジモノ
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