沖縄勉強ノート(53)長虹堤
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那覇の古地図を見ると、現在の那覇市街地のうち久茂地川より西に広がる低地の大部分はかつて海であって、長い時間をかけて埋め立てられてできあがったものであることが分かる。
岸に近い海は浅く、小さな島が点在していた。その中で最大の島は浮島と呼ばれ、中国から移住したひとびとの村である久米とか冊封使に関連した施設である天使館(冊封使の迎賓館)、天妃宮(航海安全の神を祀る)などがあった。那覇の起源はこの小島にあったわけである。
到着した冊封使が浮島から首里まで移動するにあたって当初は島から陸地まで船を並べて簡易な橋を作ったが、その後海中道路を建設した。これが有名な長虹堤(ちょうこうてい)である。
長虹堤については、琉球大学環境建設工学科教授福島俊介氏の「長虹堤の跡を追って」という文章がある。
それによると長虹堤の長さは約1kmで、位置的には現在の崇元寺橋付近から松山二丁目付近にかけて。途中には七つのアーチ橋があったが、これら琉球ではじめてのアーチ橋だったという。橋の部分は水門の役割を果たしたようだ。
d0059961_2322035.gif沖縄酔古地図というサイトには長虹堤の痕跡を求めて現代の那覇を歩いた記録がある。また、「不定期性写真日記」というサイトのこのページには長虹堤と現在の那覇の地理の関係についての詳しい検証がある。
これらを読むかぎり、崇元寺橋南詰から沖映通りを越えてゆいレール美栄橋まで伸びる久茂地川沿いの道の一本南側にある細い道が長虹堤の痕跡のようである。
長虹堤の建設にあたったのは第一尚氏王統五代目にあたる尚金福王の命を受けた中国人の懐機で、完成したのは1451年のことである。
長虹堤の写真はなく、記録の残っている同時代の遺構から想像するしかない。
葛飾北斎には「琉球八景」という連作があり、そのひとつ「長虹秋霽」は長虹堤を描いたものだが、北斎自身は琉球には行ったことがないらしい。
中国への進貢は1376年の中山王察度が始まりだが、天使館の建設は1403年、それから更に50年近く経ってようやく那覇(浮島)から首里へのコースが整備されたことになる。
琉球王朝の存立基盤は中国との安定した関係にあった。
d0059961_18535472.jpg中国は琉球に対して服従すること以外は要求しなかったようであり、初期の進貢船が中国から与えられたものだったことは、むしろ積極的に琉球を海上貿易国家として育成しようとしていたことをうかがわせる。
一方琉球は中国人を国家の経営に参加させたり、中国の技術を積極的に取り入れたりした。良好な関係が築かれていたと考えていいだろう。
こういう国家にとって冊封使を迎えることは最高位の儀式であり、その儀式を荘厳流麗に執り行うことは国家の威信をかけた大事業だった。その道筋に船を並べた仮橋に代えて海を渡ってゆく道路を建設することは冊封使一行の豪奢な行列にまたとない舞台装置を提供するだけでなく、経済センターであった浮島=那覇と政治・祭祀センターの首里を結びつける実利的側面もあったに違いない。浮島ということばのニュアンス、海中道路のイメージ、浅い海に小島がちらばる多島海的景観。昔の那覇は実にユニークな地理的環境にあり、そこで活発な経済活動と人の交流が行われていたことがリアルに想像される。
大国の傘の下にいたとはいえ、武力に依存しない海上交易国家であった琉球が、武力侵略によって滅びたことが実に惜しい。

2006年4月4日の追記。
「那覇市歴史地図」(那覇市教育委員会刊)によると、長虹堤の美栄橋より西のルートは西南西方向に伸び、その終点は現在の松山1丁目5ブロックの東端あたりらしい。

崇元寺に関するオキナワ・カルチャー・アーカイブの項

[琉球八景]
葛飾北斎作。泉崎夜月、臨海潮聲、粂村竹籬、龍洞松濤、筍崖夕照、長虹秋霽、城嶽靈泉、中島蕉園の八点。絵柄はこのブログで見られる。

(図上:1700年頃の海岸線=赤いライン。安里から左斜め下に走る線は国際通りの位置を示す 中:長虹堤の推定経路 下:葛飾北斎作「長虹秋霽」)
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by hatano_naoki | 2006-03-13 17:34 | 沖縄勉強ノート
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