沖縄勉強ノート(62)喜屋武岬
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1945年4月1日に始まった沖縄本島への上陸作戦から1ヵ月半が経過した5月下旬、沖縄での戦闘は最終段階に入り、本島中北部は米軍の手に落ちていた。
5月27日、首里にあった日本軍(32軍)の司令部は南方の津嘉山に後退し、日本本土攻撃を遅らせるというその作戦目的を果たすために、軍民の死者を加速度的に増やしながら最終的に摩文仁に移動する。
次第に命令系統を失ってゆく日本軍、戦闘に動員された準軍属である県民、避難してきた一般の住民などが戦線の南下に追われて南下していった。
6月21日頃には戦線は喜屋武岬すぐそばまで迫り、敗走する日本軍と住民はほぼ喜屋武漁港、喜屋武集落、現平和創造の森公園付近を結ぶラインより南の東西4キロ南北2キロほどの地域に押し込められた。
d0059961_115466.jpgこうした過程で米地上軍による攻撃に加えて日本軍によるガマ追い出しや住民殺害、住民の集団自決、崖からの投身自殺が起きた。また米軍艦船からの砲撃・射撃でも犠牲者が出た。一方で逃げる住民を日本兵が撃ち、米軍が住民を援護しようと銃撃を加える場面もあったという。
この地における日本軍の組織的戦闘の終結は牛島32軍司令官の自決した6月23日とされている。
喜屋武岬は本島南端ではなく、実際には2キロほど東方の荒崎付近が最南端である。岬から東に続く海岸は切り立った崖が続いている。
喜屋武岬のすぐ東、海に突き出した崖の上に小規模なグスク跡である具志川グスク跡があり、その東の崖際には平和の塔という名の慰霊碑が立っている。喜屋武岬に行くといえばふつうはこの平和の塔のある場所に行くことになる。
この付近の海は最近はサーフポイントになっているが、荒崎東方の米須海岸が通称スーサイドクリフポイントと呼ばれているというのは皮肉だ。さらに東には摩文仁の丘がある。
喜屋武は小さくて静かな集落である。糸満から来るバス路線の終点である広場では夏になると1960年代に始まったエイサーが行われるという。
喜屋武集落周辺は畑が広がり、サトウキビやニンジンが作られている。畑の境界には琉球石灰岩の塊が並べられていることもあり、この土地の地質学的特徴に思い至る。
集落の北の名城、小波蔵あたりでは電照菊の栽培も行われている。ゆるやかな丘陵地帯で、西には海が見える。喜屋武集落の方に向かっては高くなっているので海はみえない。
d0059961_9363316.jpgこの地域が戦争の記憶から自由になるにはまだだいぶ時間が必要だ。
背後に迫ってくる敵がいて目の前には断崖があり、自分たちを守ってくれるはずだった日本軍が守るどころか敵にまわることさえあった状況は絶望以外のなにものでもない。いまでは戦争の痕跡はほぼ皆無であり、過去の記憶が土地にこびりついているとは感じられないが、ここで起きたできごとを知らないでは許されない。
それにしても、ごく単純に思うのだが、記念碑というのは奇妙なものだ。
断崖のそばに立つ平和の塔は慰霊のために立てられたのだろうが、やがて訪問者がそこに行ったという事実を証明する役割を果たしはじめる。それ自体が目的化しはじめる。慰霊碑を写真に撮り、崖を覗いて訪問が完結し、それ以上考えない。慰霊碑あるいは記念碑が想像力をそぎ落としてしまう。
そこに崖と海と空以外には何もない空間があったらと思った。

(写真上:平和の塔から荒崎方面を望む)
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by hatano_naoki | 2006-04-01 23:13 | 沖縄勉強ノート
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