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沖縄勉強ノート(64)国際通りの歴史
沖縄勉強ノート(64)国際通りの歴史_d0059961_22253742.jpg「沖縄・国際通り物語」(大濱聡著、ゆい出版)は書名どおり、国際通りの歴史を描いた本である。
この本によると国際通りの起源は昭和9年に首里と那覇の距離を短縮するために開通した新設道路であり、当初は新県道と呼ばれていた。コンクリート舗装で幅は2間(3.6m)だったという。
戦争が終わると沖縄の住民はすべて北部の収容所に移されたが、米軍は空襲で焼け野原となった旧市街地を接収し、その状態が1950年代初期まで続いた。
そのために帰ってきた住民たちはやむをえずそれまで見離されてきた国際通り周辺の環境劣悪な土地に住み着くことを余儀なくされる。
1945年10月23日、住民の旧居住地への移動が指示されると、那覇にも住民が戻り始めた。最初の帰還者は壺屋地区に戻った製陶職人で、作られた食器は無償で配布された。戦前の壺屋は半農半陶の生活で、あたりは草ぼうぼうで道もなかったという。また急務であった住宅建設用の瓦を作るために瓦職人も那覇入りした。いずれも男性のみだった。
沖縄勉強ノート(64)国際通りの歴史_d0059961_2256624.jpg1946年1月、これら先遣隊の家族が那覇に入る。1月末、壺屋区設置。当時の那覇の人口は982名だった。4月4日、壺屋区は那覇市に昇格する。
「新県道」は戦後は牧志街道、牧志大通りなどと呼ばれたが、国際通りと呼ばれ始めたのは1948年はじめ頃にアーニー・パイル国際劇場が建設されてからである。この劇場は米軍から支給された鉄骨で作られ、屋根はテント屋根だった。座席500、立ち見1,000の大型劇場で、日本の古い劇映画などを上映して大変な人気だったという。
国際通りの繁栄は米国にとっては占領政策の成功を国内外にアピールする材料になったはずだ。
ちなみにすこしあとの1959~1960年ころ、沖縄本島には121の映画館があった。大変な人気だったわけである。
1950年、地元商店会が国際通りと称し、これがひろまってゆく。

国際通りのもうひとつのランドマーク、第一牧志公設市場をはじめとする市場エリアのはじまりはガーブ川沿いの湿地帯やときには川の上にまで広がった闇市だった。初期には住民たち自身が沼地を埋め立てたという。
市場では密貿易で入手した品を扱っていたが、その密貿易の基地は与那国、糸満、宮古などにあり、最初は与那国・台湾のあいだで始まった。与那国は密貿易で空前の活況を呈した。当初は黙認されていた密貿易の時代は1950年、米軍の捜索や日琉貿易の開始によって終わりを告げる。
その後の国際通りは沖縄の観光化とともに発展していく。現在の国際通りはほぼ観光客向けの盛り場となり、市場も地元住民へのサービス機能を失いかけている。

(写真下:空から見た国際通り。向かって上が西にあたる。中央右手の大きな建物が三越、左手の屋根のかかった2本の道路の付近が市場エリア。上端の左側に見える大きな建物は県庁。1997年撮影。那覇市立教育研究所静止画データベースより)
by hatano_naoki | 2006-04-07 21:51 | 沖縄勉強ノート
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