ボギーと俺
d0059961_19212241.jpgasahi.comの記事によると、米脚本家組合(WGA)が歴代の優れた映画脚本101作品を発表し、最優秀脚本として「カサブランカ」(1942年、エプスタイン兄弟/ハワード・コッチ脚本、ハンフリー・ボガート、イングリット・バーグマン主演)を選出した。ソースは時事通信。記事によると背景には「映画の興行不振が続く中で脚本の重要性を訴える狙い」があるという。

「カサブランカ」はかつては映画館で何回も見たしDVDも持っている。私にとっての古典といっていい。
だがこの映画を始めて知ったのは実は別の映画を通してだった。
"PLAY IT AGAIN,SAM"(邦訳名「ボギー俺も男だ」1972年作品。監督ハーバート・ロス、脚本ウディ・アレン)という映画がある。ハンフリー・ボガートに憧れるさえない男の物語で、私が見たのはおそらく1973年かそれよりも後だと思う。"PLAY IT AGAIN, SAM"を見た後、ようやく私はオリジナルの"Casablanca"を見ることになるのだった。
"PLAY IT AGAIN, SAM"の主人公は背が低くて貧相で、おまけに若禿で妻に逃げられたばかりという"最低の男"。ウディ・アレンが演じるさえない主人公に私はしばしば自分を重ね合わせたものだった。
しかし、ではこの主人公はアンチ・ヒーローなのかと考えると、やはりヒーローとして描かれている。それもかなり自己陶酔的ヒーローだ。

"Casablanca"へのオマージュに満ちた"PLAY IT AGAIN, SAM"を先に見た私は、ある種深刻な状態で"Casablanca"を見ることになった。スクリーンのリックとイルザを見つめる私の傍らでは"PLAY IT AGAIN, SAM"の主人公アランがささやいていたのである。
自分もリックのように生きたいと真剣に思う私の耳元で、しかしお前はスペイン市民戦争で戦ったこともパリで女と別れたこともなく、気のいい黒人のピアノ弾きの友達もおらず、ましてカサブランカでクラブを経営する手腕もないんだろ、とアランがささやく。私自身にしてもリックには憧れても、その生き方を追うことは無理だとはもちろんわかっている。わかってはいるが、リック的な生き方はひとつのモデルとして私の内部に存在するし、ほかの多くのひとびとの内部に潜んでいるだろうと思う。
しかし人生はほろ苦い。人生というものは基本的にアンチクライマックスの連続だ。正義を戦うべき市民戦争は存在しない。そもそも自分が正義のために身を挺していると実感したことがあっただろうか。迫り来るナチスの砲声の下で女とグラスを合わせ、しかし女に裏切られて思いを残したままアフリカへと旅立ったこともない。そもそもこの時代にメディアに毒されていない恋愛など起こりうるのだろうか。
ドラマチックに生きるのはむずかしい。ドラマチックに生きるにはまず歴史と出会わなければならない。それから運命的な出会いと運命的な別れが要る。ここにもある種の英雄主義が棲んでいる。
"PLAY IT AGAIN, SAM"の主人公アレンも彼を演じるウディ・アレンもユダヤ系だが、映画を見た段階ではこの属性が私に影響を与えることはなかった。彼がユダヤ系であることは映画を読み解く上で大事なキーワードになるはずだが、私はそこまで読むことはなく、憧れる映画の中のヒーローに指図されながら現実の恋愛に挑む主人公の恋愛コメディとして自分の境遇と重ねながら見たにすぎない。
かっこよく生きるとはどういうことかといまだに考える。
はっきりしているのは、かっこよさというのは他人の評価であって自分ではいかんともしがたいということだが、正直にいうなら、かっこよさに憧れるかっこわるい自分が好きだ。
ハンフリー・ボガートという俳優は世間並みにはかっこいいのかも知れないが、私にはその魅力はどうもピンとこない。イングリッド・バーグマンは「世紀の美女」だというがごつくて今ひとつという感じだ。つまり私は"Casablanca"のかもし出す世界のしくみにこそ魅力を感じていることになる。世界は構造的だ。構造は私たちを取り込み、その中で生かす。私は私を生かす構造を探索して生涯を終えるのかもしれない。
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by hatano_naoki | 2006-04-08 15:17 | 日日
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