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沖縄勉強ノート(66)閩(びん)人三十六姓と久米村
14世紀頃、中国福州から閩人(びんじん)三十六姓あるいは久米三十六姓と呼ばれる人々が浮島に移住して久米村を開いたという。
閩(びん)は福建省の古名である。閩(びん)人とは福建省から来たひとびとを、三十六は「たくさん」を意味し、三十六姓はたくさんのひとびとを意味するという。
至聖廟(孔子廟)を維持管理している社団法人久米崇聖会(久米三十六姓の末裔によって構成される)のウェブサイトには久米三十六姓について、
「明の時代の初期に今の福建省から洪武帝の命により琉球へ渡来した。琉球王国だけでは成しえない航海、造船等の技術を持ち、進貢に不可欠な外交文書の作成、通訳、商取引にあたった中国の人々で、琉球王国と中国や東南アジアとの海外貿易を担った職能集団である。1392年に琉球に初めてやって来たとされ、蔡、林、金など様々な姓の中国人が廃藩置県まで、那覇港の近くに古くは唐栄、後に久米村と称される居留区を形成していた。ここに暮らす中国人や首里から編入された人々を久米三十六姓と呼んでいる。」
と書かれている。
久米村出身者としては、謝名利山(じゃなりざん。帰化人として初めて三司官(大臣職)に就任。島津の侵入にともなって薩摩に連行され、服従を拒んで処刑される)や蔡温(久米村からの二人目の三司官。客家の出だという。)が有名だ。
沖縄タイムスの1998年5月14日朝刊に載った座談会の記事で稲嶺恵一(県経営者協会特別顧問)というひとが「大航海時代、外交、貿易にしても実際やっていたのは中国からの帰化人、久米三十六姓だった。」といっている。これは本当だろうか。
あれこれ読んでみると、久米村に住んだひとびとは、
1)初期には航海、造船、外交文書作成といった技術を携えて渡来した技術者集団だった。
2)久米村に定住したあとは子孫たちが中国に留学して技術知識を移入した。
3)貿易実務にも関与した。
4)琉球王国の中枢で国家経営そのものに関与した。
というような役割を果たしたようだ。彼らの役割が大きければ大きいほど、琉球王国の実態はユニークであったことになる。
村ができたあとは、他地域に住んでいた中国人をそこにまとめて住まわせた気配もある。村の人口は一時減少したが政府が「てこいれ」して人口の維持につとめた。村の存在自体が政策的・人工的だった。
久米三十六姓は琉球と中国の関係を象徴する技術移民であり、彼らとその子孫たちの活動が冊封体制と表裏一体だったという印象を受ける。
そればかりでなく、帰化人とその子孫が政治的にも重用されたことは琉球という国家がオープンであったとか、人材登用の面でも国際的な国家であったとか、中国との心理的距離が近かったとか、帰化人登用が中国との関係維持にあたって現実的メリットがあったとか、さまざまな理由が考えられる。
久米三十六姓の真の姿とはなんだったのだろうか。

追記。
華人の久米村への編入時期をみると、意外にも島津侵入後に多くの姓氏が渡来している(人数は不明)。すでに琉球に住んでいて久米に編入したひとびとは16世紀半ばに現れ、こうした動きは17世紀後半まで続く。久米村の形成が「明の時代の初期に今の福建省から洪武帝の命により琉球へ渡来した」ことにはじまるにせよ、その後は華人居留地としてさまざまなひとの動きがあったことを示唆している。また島津侵入後も渡来は続いている。
琉球王国が続いた期間は島津前よりも島津後のほうが長い。島津支配の前後の琉球の変化、あるいは文化的変容についてまとめておく必要がありそうだ。

(注)閩(びん)の文字が見えないか化けてしまうかもしれないので説明しておくと、「びん」とは門がまえの中に虫と書く。

2007年1月28日の追記。
赤嶺守著「琉球王国」(講談社選書メチエ)によると、彼ら(閩人三十六姓)が洪武帝の命により琉球へ渡来したことが琉球王国の正史である『中山世図鑑』に書かれているものの、中国側の史料である『明実録』には該当する記録が確認されていないという。
また、『明実録』には中山王察度が進貢を開始する1372年以前に中国人が中国との交易(冊封されていないから中山王の私的な貿易ということになる)に従事した記録があるという。
こうした記録からは琉球に住んでいた中国人が朝貢以前から地域の王権と結びついてその対中国貿易をサポートしていた姿が浮かんでくる。
by hatano_naoki | 2006-04-09 10:04 | 沖縄勉強ノート
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