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沖縄勉強ノート(67)閩(びん)人三十六姓と久米村 その2
沖縄勉強ノート(67)閩(びん)人三十六姓と久米村 その2_d0059961_17121539.jpg閩(びん)人三十六姓と久米村についてもう少し調べてみた。
するとなかなか興味深いことがわかってきた。
たとえば、久米三十六姓は福州人だったかのどうか、という疑問があるという。少なくとも彼らの一部は客家だったのではないかというのだ。
ある研究によると梁という姓のグループはさまざまな証拠からみて客家である可能性が高いという。
また琉球への中国人の渡来はおそらく三十六姓の渡来(1392年とされる)以前からあったと考えるのが自然であるとの指摘もある。
三十六姓の移住によって久米村が形成されるが、そのあともさまざまなかたちで中国人が編入した。中国からの漂着民も久米村に住んだという。
その久米村が栄えたのは15世紀がピークで、15世紀末ころには朝貢が2年に1度に制限され、貿易は衰えてゆく。久米村も次第に衰退し、人口も減ってゆく。その結果さまざまな技術水準が低下し、中国への航海もままならなくなったという。
そのため島津支配下の琉球王府はさまざまな手段で久米村を復興し維持しようとした。他の場所から中国人を移しただけでなく、日本人を住まわせることさえした。
久米村の形成のような現象は琉球における特殊例ではなく、中国と周辺諸国との関係において一般的に見られたという指摘もある(高良倉吉)。彼らは東南アジアにおける華人ネットワークの一角を担っていた。ただし久米村がチャイナタウンとならず、次第に現地化していったという指摘は興味深い。それは中継貿易の衰退によって華人が継続的に供給されなくなったからで、久米村の構成員は次第に琉球王国に取り込まれていった。
江戸末期には琉球は東南アジアの華人ネットワークを通じてもたらされる世界の情勢を島津藩に伝える役割を果たした。こうした情報はさらに江戸幕府に伝えられた。鎖国にもかかわらず、幕府は世界の情勢をかなり正確に知っていたが、その背景には長崎から得られる情報に加えて琉球からの情報があった。

久米村の位置についても調べてみたがいまひとつはっきりしない。
まずは14世紀末ころの浮島の海岸線がどうなっていたのかを知らなければならないが、これがよくわからない。間違いなく陸地だったと思われるのはイベガマ付近(長虹堤西端付近。すくなくとも長虹堤ができた1451年には陸地だった)、波の上宮付近、天使館付近の三地点で、これらを結ぶ海岸線があり、このうち現在の久米2丁目付近に小さな入り江があったと理解すればいいだろうか。
村は現在の久米大通りの両側にひろがっていたというし、また松尾山(現在の松山公園の東)の周囲にひろがっていたともいう。
久米村の中心部を通る現在の久米大通りの南端には村の南限である久米大門(現在の泉崎橋北側)が、北端には北限を示す西武門(久米大通りと上之蔵大通りの交差点付近)があった。
人口については15世紀半ばの朝鮮の記録に3,000人という記述があるという。

追記。
久米村について、もうすこしわかってきた。
当初の久米村はどうも現在の久米2丁目付近にあった入り江の周辺にあったらしい。
久米村の中国人たちは中国の習慣と服装を守っていたが、明が滅びると17世紀中ごろには琉球の習俗に従うようになったという。

(図:明治初年の那覇。15世紀頃の久米村は赤い部分あたりにあったのだろうか。)
by hatano_naoki | 2006-04-11 22:28 | 沖縄勉強ノート
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