道端のコンクリート壁にポスターが貼ってあった。
「水俣 新たな50年のために」という講演会のポスター。2006年4月29日午後2時半~6時、日比谷公会堂、司会:平田オリザ(劇作家)、講演:緒方正人(漁師・水俣病患者)、中原八重子(水俣病患者)、石牟礼道子(作家)、原田正純(精神神経科医師)、発言:柳田邦男(ノンフィクション作家)、田口ランディ(作家)、最首悟(現代思想)、上條恒彦(歌手)。入場料1800円・・・ 水俣。 過去がフラシュバックし、突然、1975年に水俣に行ったときのことを思い出す。そういえば、以前私はこんな文章を書いていた。 *** 夕刻、東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを西鹿児島行の寝台特急「はやぶさ」は走っている。 関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。 窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まりである。 となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。 あすの午後には水俣市の町はずれに住んで水俣病と患者の取材を続けているひとりの写真家に会うことになるだろう。名前は塩田武史という。わたしは彼に会うために西鹿児島行寝台特急「はやぶさ」で東京を離れたのである。 写真家と出会ったのは北インドのカジュラホである。 私は広大な亜大陸をさ迷っている途中で、写真家はナイロビかどこかでその仕事に対する賞を授けられた帰りだった。写真家はかなりいいホテルに泊まっていたが私は安宿の大部屋だった。そこにはインドではごく当たり前に見られる木の枠に荒縄を張っただけのベッドが並んでいたが、そのデザインは紀元前から変わっていないということだった。 その時この小さな村には合計で四人の日本人がいた。ひとりは何ヶ月も逗留していてその日本名をもじって「アショカ」と呼ばれており、もうひとりも長いことこの村にいて、私は数日前に来て数日後には出て行く者であり、写真家も数日だけ滞在する旅行者だった。そういう四人がどういうわけか一緒に食事をしたり無駄話をしたりする時間を共有したわけだ。 写真家はその2年前に『写真報告-水俣・深き淵より』(西日本新聞社)を出版し、またユージン・スミス夫妻、宮本成美氏他と共同で『不知火海・終りなきたたかい』(創樹社)を出版していた。ユージン・スミスは妻アイリーンと前年まで水俣に住んで取材に没頭していた。 帰国した私がなぜ写真家に会おうとしたのか、写真家がなぜ受け入れてくれたのか、今となってはたしかなことはなにもない。 寝台特急「はやぶさ」が水俣駅に到着したのは1975年の春のある日の午前10時かそれくらいだった。駅前に立つと300メートルほど先にチッソの正門が見えた。先入観のせいか軍事施設のように陰鬱だ。 駅のそばの安宿に入ると、お茶を持ってきた仲居さんが「記者の方ですか」といくらか疎ましいような口調で問いかけてきた。被害者の多くを占める漁民たちと工場と関わりを持つ町の人々の間にある亀裂が着いて早々に見え隠れする。 荷物を置くと町に出てバスで南へ4キロほどの距離にある月浦(つきのうら)に向かった。そこに写真家が住んでいるのである。小高い斜面の途中にある写真家の家はすぐに分かった。家に上げてもらい、ぼそぼそと話をした。それから写真家は私を車に乗せて付近の湯堂や袋の集落に行き、何軒かの民家に立ち寄った。写真家はそれぞれの家の庭先で村人と世間話をしたり縁側に座り込んだりした。私は存在を消すように して傍らに立っていた。夜になってから国道沿いの小さな食堂に立ち寄り夕食を食べた。写真家に別れを告げた私はバスで暗い国道を走って水俣の町に戻り、翌朝フェリーに乗って御所浦経由で天草に渡った。 その短い水俣訪問で写真家と一緒に会った人たちのすべてが水俣病の患者であるか家族に患者を抱えていたのだった。彼らは写真家にとって被写体であると同時に共に運動を進めている仲間でもあったが写真家は何も説明しなかった。写真家は私になんら「ブリーフィング」を行うことなくいきなり現場を見せたのである。 袋漁港に立って水面を見透かそうとしながら、私は水銀を呑んだ魚群が狭い水俣湾内に封じ込められたまま泳ぎ回る光景を想像した。 ここで水俣病事件の経緯を手短に述べるなら、水俣にチッソの前身となる窒素肥料会社が設立されたのは1908年のことである。 1953年、水俣病第1号患者が発病する。1956年には熊本大学が水俣病伝染病説を否定し、原因を工場排水と指摘する。1963年には熊本大学によって水俣工場排水中から有機水銀が検出される。 1968年、政府は水俣病を公害病と正式に認定。1969年、チッソに損害賠償を求める1次訴訟。 1971年から1988年にかけて患者被害者勝訴の判決がつづくが、1992年には東京地裁が、1994年には大阪地裁が、水俣病における国と県の責任を否定する判決を出す。 1996年、水俣病患者とチッソは政府解決案により和解する。 こういう流れの中で私が水俣に行った1975年は1次訴訟で熊本地裁が患者被害者の勝訴判決を出した1973年以降、状況が患者被害者の救済に向けて有利に展開していると思われた時期ということになる。 その後、写真家と連絡をとることはなかった。写真家はインドで会って一度だけ訪ねてきた男のことを速やかに忘れてしまったに違いない。しかし彼が解説することもなく事実だけを放り込んできたせいで、死んだために老いることのない友だちのようにそれらの事実が私の中で生きつづける。 *** 私の水俣に関する記憶はそれだけだ。 東京に帰った私は塩田氏の写真集を買い、その中で数日前に出会った人々に再び出会った。 塩田武史という写真家とはいったいどのような人物だったのだろうか。 財団法人水俣病センター相思社の機関紙、「機関誌ごんずい」に掲載されたプロフィールによれば、 「1945年香川県生まれ。1967年より撮影を始め、1970年に水俣に移住。水俣病・水俣病闘争を写真雑誌などに発表。第一次訴訟当時の写真を多数撮る。1973年、『写真報告-水俣・深き淵より』を西日本新聞社より出版。同年、ユージン夫妻、宮本成美ほかと共同で『不知火海・終りなきたたかい』を創樹社より出版。現在、熊本市在住。」 となっている。 あれから30年が経った。 塩田氏はまだ水俣にいて相変わらず写真を撮り続けているはずだ。 私は曲がりくねった道をたどりながら、水俣に関して何も行動することはなく、しかしどこかにあのときの一日限りの記憶を宿してときどき触りながら生きている。
by hatano_naoki
| 2006-04-20 23:56
| 目撃・現代史
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