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沖縄勉強ノート(69)辻遊廓(チージ)
沖縄勉強ノート(69)辻遊廓(チージ)_d0059961_1628859.jpg戦前まで那覇に存在し、1944年10月10日の大空襲によって姿を消した辻遊廓(チージ)について、那覇市史に詳しい記述を見つけた。
それによると、ちーじの起こりは1672年であると「琉球国旧記」の記録に見えるという。それまであちこちにちらばっていたジュリ(娼妓。女郎が語源だという説もあるというが定かではない)を一ヶ所に集めて遊廓を作らせたのは「中山世鑑」を編纂した向象賢(1617~1675)だった。管理に手を焼いていたということだろう。廓社会の生態系ともいうべき独特の文化が形成されていったのはそれ以降ということになる。
浮島に遊女が現れた時期そのものはおそらくもっと古く、中国から貿易船が来るようになった時期と一致するだろう。
現在の那覇バスターミナルそばにあった仲島遊廓もほぼ同時期。もうひとつの遊廓、渡地遊廓(わたんじ)の起源は少しあとらしい。
チージは大貿易時代には冊封使を、島津支配が始まると在番奉行をもてなした。
遊廓の存在は琉球の外交にとって強力な武器だったようで、伊波普猷は「尾類(ジュリ)の歴史」の中で、冊封使一行のひとりがジュリにうつつを抜かして帰国する船に乗り遅れたというエピソードを語っている。
同じく普猷によると昔はチージの家々は茅葺で生垣で囲ってあったという。
明治頃のチージは高い石垣に囲まれた瓦ぶきの平屋が並んでいたが、1919年(大正8年)の大火で大半が焼け、その後道幅が広げられ、大和風の二階建が増えたという。

那覇市史は昭和10年代の辻遊廓について詳しく語っているが、それによるとチージは本土のそれとはかなり違う独特の世界を形成していたらしい。
まったく女だけで営まれる共同体である。地縁血縁と切れている。
男が一切介在しない。太鼓もちもいない。
やくざがからまない。人買いもいない。女のヒモもいない。女の犯罪はほとんどなかった。
本土のしくみとは違って、娼妓と遊ぶ家、彼女たちが住む家といった区別がなく、また料理も女たちの手作りであり、掃除も自分たちでした。本土のような芸妓、娼妓、酌婦の分業もなかった。
遊廓における貸座敷業者(女将。アンマー=母親と呼ばれた)はまさにジュリの遊廓における母親であり、ジュリとは強い絆で結ばれていた。
ジュリの生い立ちは、アンマーが産んだ子、一人前にならない妓が産んだ子、五、六歳から養い育てた子、十七、八歳になってからチージに来た子、それにアンマーが自分の後継者にするためにつれてきた故郷の親戚の子などさまざまあった。
子供を売り渡す金額は安く、渡地遊廓の場合は明治40年代に米が1升7、8銭の頃、10歳くらいで8円、美しい子で20円くらいが相場だったという。生活の苦しかった農民にとっては口減らしが主目的であったのかもしれない。
売られてきた子は客をとるようになると借金を返してゆく。借金を返し終わっても、チージにとどまって自らも貸座敷業者となってジュリを抱え、自分のアンマーと同じ道をたどった。
チージを構成していたのがこうした零細な貸座敷業者であり、大きな資本や搾取が介在しなかったのも特徴的だ。ただし金貸しや物売りにとってはチージはいい客だったらしい。
死ぬと遊廓の皆に送られて故郷に帰った。借金を残して死んだ場合は帳消しになった。
チージでは一見の客は相手にされず、また客のえり好みをした。貸座敷業者は基本的に男の援助を受けることはなかったという。
男はジュリとの間に子供を作っても責任をとらなくてよかった。誕生の祝いは女たちだけでやった。
チージに女を囲う者が多く、妻は夫のチージ通いを認める風潮があった。男の家に出入りすることもあって、名誉なこととされ、冠婚葬祭には抱えているジュリたちを引き連れて料理や給仕の手伝いをしたりして男の家や本妻に尽くした。
しかしながら、本妻と妾のあいだには微妙な協力関係と反目が存在した。
チージは上村渠(うぃんだかり)と前村渠(めーんだかり)の2つの地区に分かれていた。それぞれに古来の女性だけによる自治組織を持ち、その役職である盛前(むいめー)が神事を司り、行事を執り行った。同様に仲島遊廓と渡地遊廓にも盛前(むいめー)制度があったという。

こうして見てくると、沖縄における遊廓が女性の犠牲の上に成り立つ性の市場であっただけでなく、祭祀までも内包する女だけの閉じた共同体として独自の存在であったことがわかる。
チージの女たちは那覇のほかの町を「ムラウチ」、一般社会を「じゅく(俗)」と呼んで自分たちと区別していたという。
昭和七、八年頃のチージには176軒の遊女屋があり、329人の貸座敷業者、1500人以上のじゅりがいたという記録がある。男はひとりもいなかったという。

(図:明治初年の那覇。赤い部分が辻遊廓。)
by hatano_naoki | 2006-04-14 16:15 | 沖縄勉強ノート
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