「癩王のテラス」を読む
d0059961_1681734.jpg三島由紀夫の戯曲「癩王のテラス」は、現在は古本をのぞけば「決定版 三島由紀夫全集」のみが入手可能であるようだ。
以前から読みたかったこの戯曲を、最近ようやく図書館で読むことができた。1969年刊行の単行本である。
この戯曲の初出は1969年6月。雑誌「海」創刊特大号に掲載された。三島が44歳となり、翌年の死まで1年と少しを残していた時期である。
単行本の初版は昭和44年6月28日発行となっている。口絵としてアンコール遺跡の写真数葉(石井出雄撮影)とアンコール地域の地図が入っている。
三島は1965年10月にアンコールに入り、アンコール・トムを訪れて癩王像と考えられていた石像を見た。
1965年といえばいわゆるシハヌーク時代でカンボジアの国情はそれほど暗くはなく、アンコールを訪れる観光客もまばらだったにちがいない。三島はおそらくグランドホテルに泊まり、自動車でゆっくりと周回ルートを巡航したことだろう。
単行本のあとがきで三島は「(略)若き癩王の美しい彫像を見たときから、私の心の中で、この戯曲の構想はたちまち成った。」といい、さらに「私はこの大詰を書きたいために、(略)この戯曲を書いた。」といっている。
この大詰とは、おそらく「精神」と「肉體」の対話の部分を指すのだろう。
戯曲の最後に置かれた「肉體」のせりふである「肉體こそ不死なのだ。」ということばこそ、三島が書きたかった一言だったと思えるし、この作品が「豊穣の海」と並行して書かれた素描的小品、あるいは「豊穣の海」と同一の根を持つ熱帯の花だという印象を受ける。
もうひとつの手がかりは三島の浅野晃宛書簡の中の「(略)アンコール.トムのバィヨンのふしぎな仏顔がアヴァローキテシュヴァラであるといふ説から「癩王のテラス」といふ戯曲を書いたこともある小生とて、観自在菩薩の信仰には、一方ならぬ関心を持ってまゐりましたが、(略)」という一節である。
一方で舞台として設定したジャヤヴァルマン7世の時代のアンコールについては、あまりむずかしい理屈はいわず素直に書き込んでいるように感じられる。肉厚の葉を持つ巨大な樹木をイメージさせる熱帯の偉大なる王国の豊穣な雰囲気を欲していたのだろう、そのイメージをシンプルに結実させている。
1970年11月25日の昼過ぎ、三島は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自決したが、この日は「豊饒の海」最終章である「天人五衰」完結の日だったという。

この日、三島の自決にいたる行動をテレビ中継でほぼリアルタイムで目撃した記憶がある。その衝撃は鈍く体に響いた。当初は狂信的国粋主義者の無意味な行動にも見えた三島の死は、やがて日本という国家に対してボディブローのように効きはじめたのかもしれない。

[陸上自衛隊東部方面総監部と市ヶ谷駐屯地]
陸上自衛隊東部方面総監部は関東甲信越方面に配置された部隊を管轄している。三島が自決したときは市ヶ谷駐屯地にあったが、その後朝霞駐屯地に移転した。
市ヶ谷駐屯地は戦前の一時期、陸軍士官学校が置かれた場所でもある。第二次世界大戦末期には陸軍省・参謀本部などがあった。
市ヶ谷の旧参謀本部について

(写真:バイヨンの尊顔。これが何を意味しているのかは諸説があって確定していない。)
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by hatano_naoki | 2006-04-16 08:15 | カンボジア
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