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淺沼稲次郎刺殺事件(1960)
淺沼稲次郎刺殺事件(1960)_d0059961_3241013.jpg1960年10月12日、当時の社会党委員長、淺沼稲次郎は自民党・社会党・民社党3党の党首立会演説会が行われていた日比谷公会堂の壇上で右翼の少年に刺されて死んだ。
当時私は小学校の6年生で、おそらく学校から帰ってすぐにテレビのニュースでその瞬間の映像を見た。事件が起きたのは3時すぎ。私の小学校は徒歩3分の近さだったから、帰宅時刻は事件の起きた時刻あたりだったはずだ。
演壇に立つ肥満体の大柄な社会党委員長に脇から走りよってきた学生服姿の小柄な若い男が体ごとぶつかると、委員長はよろけ、メガネがずれ、それから倒れこむ。壇上は騒然となる。
すでにVTRが実用化されていたから、刺殺の瞬間の映像はこれでもかというほど繰り返し放送された。
刺したのは高校生だった山口二矢(おとや)という17歳の少年で、事件から1ヶ月も経たないうちに自殺した。
東京少年鑑別所の独房の壁に歯磨き粉を溶いて「七生報国 天皇陛下万才」と書き残して首吊り自殺したという。

人間が刺されるのを見るのはおそらく初めてだった。
映像は社会党委員長に若い男が体当たりするばかりで、刃物で刺すという生々しい生印象はなかったが、人が刺されるとはこういうものかと思った。
人が刺され、その人はいくらも経たないうちに死ぬのだが、その死はなぜか抽象的だった。
現実には同じ場面が繰り返して再現されることはない。VTRが現実を繰り返すことでその場の異常さを強く印象づけたが、やがてテレビはそのメディアとしての特性を露わにしはじめた。私の注意はだんだんと画像の枝葉に及んでいったのである。
社会党委員長は大きくて太っているが、右翼の少年はやせていて小さい。というようなことだ。右翼の少年が小柄でやせていることなど事件の本質と何の関わりもないが、彼らの体格の映像的対比は明らかにテレビ的だった。
こうして強い刺激を受けながらも一方でテレビというメディアの申し子であった12歳の私は、そのメディア特性を全身に浴びた最初の世代に属していたに違いない。
テレビ画面がモノクロだったことも関係があったかもしれない。前年の皇太子ご成婚でテレビは一挙に普及したが、ほとんどはモノクロ受像機だった。1960年はカラーの本放送が始まった年だが、普及率はきわめて低かったはずだ。
今になって改めて驚くのは、このとき戦争が終わってからわずか15年しか経っていなかったということだ。使われた凶器は自宅で偶然見つけた「五十糎位の長さの古ぼけた白鞘の日本刀」で、「刀身が赤黒く錆ぴて」いた(供述調書による)という。

山口二矢供述調書
by hatano_naoki | 2006-04-18 03:24 | 目撃・現代史
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