「環境と文明の世界史」を読む(2)
○○さん、
「環境と文明の世界史」を読み終えました。
読み終えたとはいっても、大変に中身が濃いので文章を目で追ったといったほうがいいのかも知れません。
読み終わっての感想ですが、まず、提示される具体的な数字や事実にあっと驚くことが少なくありませんでした。
それはたとえばネアンデルタール人が我々の祖先ではなく途中で枝分かれした存在だということや、35000年前にベーリング海峡を越えた人類が100人だったとしても(人口増加率を1.4%と低く見積もっても)800年後には1億人になるとか、火の起源は落雷による発火だとか、釈迦はネグリートかもれないがモンゴロイドかもしれないとか、文明の起こる環境は雨量500ミリ前後の地域だとか、古代ギリシャでは森林破壊で農地が荒廃し、アリストテレスの頃には穀物は輸入していたとか、要するに私の知らなかった事実がいくらでも出てくるわけです。
これにはちょっとうろたえてしまいます。
こういった断片的な事実は、大きな歴史の流れや変化がなぜ起きたかという議論に収斂していきます。ここでは歴史に対する視点、とらえかた、理解のしかたのユニークさに驚かされますが、結局のところ、これらも旧来の史観に対する攻撃ないしは批判であるのでしょう。
議論は結局のところ、私たちが地球環境に対して大変な破壊を行ってきたことを明らかにします。その先にあるのは破滅ではないか?それを防ぐ(あるいは乗り越える)ことについては、はっきりとは表明されないものの、悲観的な空気が漂っているように思えます。
これは私が以前から感じていたことであり、もちろん私だけでなく多くのひとびとが気づいて考え続けてきたことですが、私たちはどのような価値観、世界観を抱いて生きていけばいいのでしょうか?
成長や発展ということばが無力になり、といって次の生き方を創出することもできない。現実には大量消費が止まない。たぶん私たちはつつましく生きるべきであり、また他人に対する想像力を育て、憎悪を減らし、愛を増やさなければならないのでしょうが、現実の世界では憎悪がむしろ増殖しているようにも見えます。
ひとつの価値観が終焉を迎える局面では私たちは不安になります。今がその時期なのでしょう。それと、これは単純な思考ですが、"西欧的価値観"にはもはや期待ができない気がする。なにが西欧的価値観なのかとか、ではアジア的あるいはイスラム的価値観が存在するのか、存在するとしてそれらで代替できるのかといった議論になるのでしょうが、ごく感覚的な話としてそう思います。

それともうひとつ。
本論とは直接関係ありませんが、尺度の話です。この本では私たちの日常の感覚とはかけ離れた時間の尺度が持ちだされます。新書266ページで100万年を旅するのですから。地理的にも全地球的な尺度が出てきます。そこからDNAレベルにまでズームしていく。こういう尺度の自在な変更は、思考のダイナムズムにすくなからぬ影響を与えるでしょう。常日頃、私たちの尺度は硬直的ですが、ときどきは柔軟体操が要るのだと気づかされます。

しかし本書がカバーしている知見と思想は、まだ全貌が把握できません。もう一、二回読み直してみる価値がありそうです・・・。
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by hatano_naoki | 2006-05-25 18:23 | 日日
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