「夏の闇」と「輝ける闇」
開高健の小説「夏の闇」を読み終え、今は「輝ける闇」を読んでいる。毎日数ページ。亀のような歩みだが。
「夏の闇」の舞台はパリとおぼしきヨーロッパの大都市と、ドイツかと思われる国の湖のほとりであり、「輝ける闇」のほうはベトナム戦争中のサイゴンが舞台になっている。「夏の闇」の舞台はヨーロッパだが、主人公はベトナムに戻ろうとしている男であり、、「輝ける闇」は今まさにサイゴンにいる男の物語である。
この二作がなんらかの意味で対をなすように意図されたのかどうか、私には分からないが、続けて読むとき、たとえばネガとポジのように存在している気がしたのは事実だ。
考えてみたらこの作家の小説をきちんと読んだことがあるのかどうか。私の感性はずいぶん鈍り、作家の体臭にむせかえることもなしに、こういった文体をそれほど抵抗もせずに受け入れるだけでなく、彼がどの程度の体験と知見をもとに書き進めたのかを窺おうとさえしている。
これらが日本語によって書かれたベトナム(ないしはベトナム戦争)を舞台とする小説の最高峰だとすれば、カンボジアを舞台とする日本語の小説にはどんなものがあるのだろうか。調べたこともないが、おそらくたいしたものはないのではないか。そこから、現代のカンボジアを舞台とする小説を書いてみたらどうかという思いつきも出てくるのだが。
私にはたぶん小説の才能はなく、それどころか書く才能自体が存在するのかさえ疑問ではあるのだが、それでも以前よりは牛歩のごとくだが進歩している。小説の破綻は惨めだが、別に失うものもないのだから、いずれやってみるかもしれない。
この作家を読んでいると文体というものを常に感じるし考える。神は文体に宿るのであって、思惟とか構想とかに宿るのではない。シンプルにいうなら文体があるかどうかがすべてだ。しかし、では文体が技術かといえばそうでもなく、それは皮膚からにじみだす汗のようなもの、その作家の肉体と不可分のものだ。つまり今、自分の文体を生み出すことこそが課題になっている。
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by hatano_naoki | 2006-10-17 18:15 | 日日
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