種の衰亡
いじめられていたらしい子どもが自殺し、その子どもに命の尊さを教えていた校長も自殺する。事実関係はもはや二の次になり、ついこのあいだまでとは状況が一変して、子どもが死ねば「いじめが原因かどうかわからない」とは口が裂けてもいえなくなる。偶然のように提案された子どもの死の仕様、校長の死の仕様はメディアによって拡散し、追従者は判断停止のままで仕様に沿って死を簡単に選択する。おとなの側の当事者能力の貧しさは子どもたちの側に誰からも庇護されていないという自意識を育てる。親は子を殺し、子は親を殺す。親殺しも子殺しも時代の生んだ死の仕様であり、もはや自分が苦しんで生み出す概念ではなく容易に手に入る一種の消費行動になった。総じて私たちの国は死を容易に選択し、大量消費する時代に突入した。私たちの国、私たちの時代には死のリアリティはない。自分が死ぬという究極的な選択についてもリアリティが持ち得ない時代というものはとことん不幸である。こうした事象の根本的な原因が私たちが種の衰亡への道を歩んでいることにあるとしたら、絶望と不安は極大化する。さて、実際はどうだかわからない。しかし私にはこういうひとびとの迷走が幻想の国家が生み出した不安に根ざしていると思えてならない。わたしたちの国家が現実を生きることをはじめないかぎり、これからも子どもはよくわからない理由でいくらでも死に、校長はつぎつぎとよく分からない圧迫のもとに自殺をとげる。あるいは死なないまでもその果たすべき機能を停止してしまう。親は子を簡単に殺し、子は親を簡単に殺す。しかし本当の理由は当事者たちもよくわからない。おそろしい時代が憑いている。種はいつか必ず衰亡する。これは世の習いだ。私たちの種の命脈は断たれたか?
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by hatano_naoki | 2006-11-13 23:06 | 日日
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