今の私にはこの高名な芸術家を認めることがむずかしい。太陽の塔がいいと思ったことはないが、それが理由ではない。「沖縄文化論」はひどく落ち着かない気分で読んでいる。ひとつには久高島での彼の行いが許せないということがある。グソー(風葬地)に入って死者の写真を撮り、雑誌に発表したことは私をも傷つけた。男子禁制のクボーウタキにも入り込んでいる。比嘉康雄氏もクボーウタキに入って写真を撮っているが、このひとは神様が許したという気がする。一方の岡本太郎は闖入者だという気がしてならない。この本は毎日出版文化賞を受賞している。名著だと評価されているのだと思う。しかし私には受け入れにくい。この芸術家の言説を信用していいものかどうか、迷っている。たぶん世評どおり彼の指摘は鋭く的を射ており、私のような印象はおそらくいいがかりのようなものなのだろう。この本はすばらしい本であるにちがいない。しかし私は自分の感性に正直に生きるほかなく、そうであるならば芸術家の存在そのものからうさんくさい匂いを感じてしまっているので、この本もまた信じるのがむずかしい。読みながら不安である。
一方で、芸術家の描く沖縄は、実は私がこれから描こうとしている沖縄像に近いようにも感じられる。そうであるならば、1959年にすでに描かれた沖縄像を、それよりも低レベルの作法で50年後に描く意味は皆無ではないか。これは一種の近親憎悪かもしれない。 この本の本質的な特徴ではないが、書かれてから時間が経過したために興味を引く部分もある。町や風景の描写も時代を描いて貴重だ。たとえば飲食店が内地スタイルのすしやなどばかりだったこと、地元のひとびとには泡盛がそれほど好まれていなかったことが出てくる。つまり観光地としての沖縄の訴求が始まる前夜の沖縄、化粧をする前の沖縄が表れている。沖縄の沖縄らしさを強調する姿勢がなかったのだ。それはつまり地元のひとに沖縄固有の文化がそれほど評価されていなかったということでもあり、おそらく内地の人間にとっても状況は似たようなものだったのだろう。今からふりかえると芸術家の称えた沖縄のイメージはその後そっくり観光沖縄の鋳型となったように思える。それはある種の先見性といえなくもない。 居心地の悪い読書だが、芸術家が自由奔放に遠慮せずに書いていることは伝わってくる。おそらくすごいスピードで書き上げた原稿だろう。かつ感覚的だ。 本書とは直接関係のないことだが、ここしばらく、沖縄に原型を見ること自体がステレオタイプだという気がしてきた。沖縄に原初的で根源的なもの、日本本土では失われたものを見ること自体、まちがっているとは言い切れないが、情緒的な視線で原初的なる沖縄を見ることはいかがなものか、と感じてきた。要するに腑分けが必要なのだ。
by hatano_naoki
| 2006-11-19 17:28
| 沖縄勉強ノート
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