1944年10月10日まで存在した那覇の辻遊郭がどんな場所であったのか、辻に育った尾類(じゅり)であった著者による実に詳細な"生活誌"。以前から読んでみたいと思っていた本だが、きのうようやく二割ほど読み進むことができた。大正時代から沖縄戦がはじまるまでの時代の辻を内側から見た記録として貴重である。記述は具体的で詳しい。辻での生活について語られる文章の多くはこの本をもとにして書かれているようであり、この本しかないというような状況でもあるようである。史料としての価値もあるのだ。
辻は基本的には遊廓そのものだが、そのサービス機能が多様であるだけでなく濃密な人間関係とそこに生まれる情とに立脚していたこと、女によるある種の自治組織が機能していたこと、そしてなによりも辻という都市の中の狭い一画に独特の価値観、倫理観、人生観が生き、長い期間にわたって維持されたことにある。都市の一角が物理的境界をともなわずに独自の世界を形成することは珍しくはないにせよ、辻の独自性と外の世界とのつながり方には琉球処分以降の沖縄の社会を知るためのいくつもの鍵が含まれるように思われる。それはたとえば人身売買であり、農民の貧窮であり、士族の衰弱と退廃であり、それらは日本による植民地的支配とその背景にある沖縄のなんらかの弱さが生み出したものだったに違いない。植民地主義は弱さを衝いてくる。 本書が史料としての価値を持つひとつの理由は断片的な記述にも興味深い点が多いことだ。たとえば当時の沖縄の農村部では用を足したあと紙ではなく特定の木の葉が使われていたことが書かれている(カンボジアでは今でも用を足したあと特定の木の葉を使うという)。 辻は庶民のための遊び場ではなく、那覇の金持ちのために性をふくむ複合的なサービスを提供していた。辻で遊べるのはほんの一部のひとたちであったにすぎない。たとえば昭和初期には1,500人のジュリがいたといわれるが、彼女たちが相手にしていたのは粗い推定でせいぜい5,000人かそれくらいだろう。しかし一方で5,000人もの男たちが辻になじみの女を持っていたということにもなり、それはつまり売春というより公的に恋人であり妾である女を斡旋するしくみといったほうがいいような気もしてくる。 当時の男たちにとって辻は甘美で自由な楽園だったことだろう。このしくみの裏には陰謀はなかったのだろうか?辻が形成されたのは17世紀の後半、島津の支配が始まって半世紀以上もたってからである。男たちを骨抜きにして支配者に対する反抗を殺ぐための政治的な陰謀の匂いがするといったら言い過ぎだろうか。
by hatano_naoki
| 2006-12-28 09:17
| 沖縄勉強ノート
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