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沖縄勉強ノート(104)本土の遊廓
辻遊廓がどれほどユニークな遊廓だったかを知るには日本本土の遊廓のことをしらねばならないと思っていたが、『洲崎遊廓物語』(岡崎柾男著)という本をみつけた。
それによると、官許の遊廓の起源は江戸の吉原に始まるようだ。
元和4年(1618)、それまで市中にちらばっていた私娼を現在の日本橋人形町付近に集めた。一説には、吉原の名は付近が葭(よし)の茂るじめじめした土地であったので葭原と呼ばれ、やがて吉原と呼ぶようになったという(異説もある)。
当初の大きさは二町四方だったという。
吉原ができるとそれ以外の私娼は禁止されたが、実際には湯女(ゆな)風呂が多数あった。しかしこれらは明暦3年の「振袖火事」後に取り潰されてしまう。また岡場所(私娼のたまり場)は市中に160カ所以上もあったという。こうした場所は社寺の門前に多くあったらしい。また各街道の出入り口となる宿場(品川、千住、板橋、内藤新宿)には飯盛女と呼ばれる女郎がいた。
おそらく明治以降の時期の話だろうが、娼妓の生活がつぎのように書かれている。
起きるのは午後の4時か5時。
大半の娼妓は大部屋で寝起きしていた。
午後5時か6時に食事(朝食に相当する)をとる。風呂に入り、化粧をし、髪を結い、衣裳を着ける。
7時か8時ころ、奥の衝立の前に稼ぎの順に居並んで客を待つ。
客をとる合間に夜11時か12時ころ、食事。
娼妓は1日に何人も客をとった。一昼夜で十数人という記録もあるという。
午前2時をすぎるとなじみの客の部屋にいくが、その後も別の客をとった。
朝6時ころ、客を送り出し、8時か9時ころに食事。
その後に睡眠をとったのだろう。
興味深いのは、妓楼側が娼妓の脱走を常に警戒していたこと、娼妓の借金の扱いがあいまいで、搾取の意図が明確だったこと、1日に多くの客をとっていたことだ。
これも面白いことだが、明治33年に娼妓が自由に廃業できるとする判決がだされ、また救世軍や他のキリスト教団体が娼妓の解放運動を進めて一定の成果を挙げていたこと、その後の軍国主義への傾斜にともなってこうした動きが衰えていったこと、また明治の初期から中期にかけては娼妓に対する差別意識は低かったと考えられることだ。
帝国主義化、軍国主義化の流れの中で何がおきたかを改めて考えさせられる。
また、こうしてみると、辻遊廓も苦界にはちがいなかったが、そこには一定の温かさが存在していたようにも思えてくる。辻ではジュリが1日に多くの客をとることはなかったようだし、客を選ぶこともできた。借金はきちんと返していけたし、生活そのものも放埓とはいいにくかった。むしろ地味だといっていいくらいだ。人身売買も性の搾取もあったが、サツバツとした性の市場ではなく、むしろ古代的とも思える階級意識、上の階層に対する従順さ、情緒と義理人情でで包まれていたように見える。
辻遊廓ができたのは1672年とされているから、吉原ができてからしばらく後のことだが、吉原の例にならって娼妓の集中管理方式が琉球に導入されたのだろうか。
by hatano_naoki | 2007-01-24 19:18 | 沖縄勉強ノート
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