思考の星雲(3)
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***さん

いつも思うことなのですが、論理というものは人間になじみにくいのではないのでしょうか?
その歴史の中で論理を生み出した(見出したというべきだろうか?)人間は、結果的に論理にがんじがらめになっているようにも見えます。
人間はいくつもの矛盾を抱え込んだ存在であって、決して論理的に整理されているわけではありません。それなのに、論理を発見して以降の人間は、論理という尺度を使って人間の生き様をさまざまな局面で判断しようとします。もちろん、理性と論理を信奉することは現代に生きる者として当然のことであるわけですが、論理と人間との境界でなにか居心地の悪さを感じるのも事実です。そしてまた、論理というものが自己増殖したり、自己保全を図ったり、まるで人間とは別の生き物のように見えることすらあるのです。
ぼくの思考はおそらく"多神論的"(これは冗談)です。相互に矛盾する複数の小さな論理の存在を許してしまう。価値観は無数にある。AとBは峻別されなくてよい。ぼくには大規模な体系的思考(一神論的思考とでも呼んでみましょうか)というものにうさんくささが感じられてしょうがないのです。
おそらくひとびとはきちんとした、全体として矛盾をきたしていない思考の体系を信奉して生きているのでしょう。それはたぶん正しいのです。しかし一方に、矛盾こそが人間存在なのだと思っている自分がいます。
こうした言い方は単に、ぼくが論理的な人間でないことのいいわけかもしれません。ぼくはほとんどの場合、自分の感情に忠実に生きており、論理とは感情=直感が指し示すものを後から正当化するための方便であるかのようです。

写真・M101星雲 copyright(c) NASA
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by hatano_naoki | 2007-02-02 23:00 | 日日
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