思考の星雲(5)
d0059961_23395141.jpg日々を生きる私の基本的な不安は、拠るべき原理、原則、規範、大義が私の中に存在しているのかどうかがあやふやであることだ。もちろん、実際には私もまた何かに拠って生きているに違いないし、その正体はいずれ歴史の中で名づけられて時代の象徴的な呼び名となるかもしれないし、それはもしかすると新しい"思想"かもしれないが、私を支えてくれているようには見えない。
かつては私の中に科学の神と進歩・向上の神がいたようだ。このふたりの神は手に手を携えて人類を幸せに導くと語っていた。私が生まれ育ってゆく過程で、日本には高度成長という目前の希望があった。その先の未来は、たとえば子供向けの雑誌のグラビアには、ゴミひとつ落ちていない、清浄でつるつるして透明で静かな世界として描かれていた。あるいはそう思えた。思い悩むことはない、一生懸命に働けば金持ちに幸せになれる。
その後、映画『ブレードランナー』を見た私は別の未来を発見した。暗く、ごみごみとした未来である。それは結局のところ白人であるアメリカ人の描くペシミスティックなアメリカの未来像にすぎなかったのかもしれないが、私の内部にあった未来のイメージを劇的に変更する効果があった。こちらの未来のほうが現実に近いのかもしれない。
そして今思うのは、未来はおそらく光り輝くものでも、暗くごみごみとしたものでもないだろうということだ。今見えている未来は輪郭がはっきりしていない。幸せと不幸せの間の広大であいまいな領域に薄くひろがっている。未来とは、実は私たちの内面の行く末のことなのではないか。しかも、これから先、私たちは拠るべき思想を見失ったままで幾世紀も生き延びていかなければならないような気がしている。
繰り返すが、だからといって私が不幸というわけではない。不安なだけだ。不安は重くなったり軽くなったりするが基調低音として鳴りつづけている。
現代社会の特徴であるマスメディアの異様な肥大化によって私は日々たくさんの情報を受け取るが、世界をふくむ対象物のことが分かりすぎ、しかし実は何も分かっていないというジレンマの中に生きている。輪郭ばかりが強調されたそれらの情報を大量消費することが幸せだとは感じられないし、むしろ苛立ちを感じるが、一方で情報の枯渇をおそれてもいる。私は思想というストックにではなく、情報というフローに拠って生きているのかもしれない。実際、今現在の私の思考は、思想とはちがうものの周囲をまわっているような気がする。
こういう世界で私がどのように生きているかを考えてみると、当然のことだが、「時代の毒を食らって」生きていることに気づく。私は時代を映して生きている鏡にすぎない。それゆえに閉塞感があるが、自分が何かを作り出す、あるいは作り出していると感じるときにだけ、その閉塞を打ち破っていると感じられる。だから書くこともふくめて、何かを作り出す作業が私には麻薬のように必要だ。
いまさらだが、ここで言っている「思想」とは「体系的にまとまった思考の内容」ということにしておく。言い換えれば「思考の家」だ。その家を出て放浪する私は、実をいうとちょっと誇らしくもある。

写真:M27惑星状星雲 copyright(c) NASA
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by hatano_naoki | 2007-02-07 10:40 | 日日
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