思考の星雲(7)
又聞きの又聞きのような話だが、レヴィ・ストロースはbricolage(日曜大工というような意味)という概念を提示しているらしく、これを行う者はbricoleur(器用人というような意味)と呼ばれて玄人(くろうと)と区別されるという。またbricoleur(は近代における知の象徴のひとつとしての「技術者」と対立する概念であるという。
ここでいわれているbricolage/bricoleurの概念を正しく理解しているかどうかは自信がないけれども、私自身の生き方とか処世とか立ち位置とかがどうもこれに近いのではないかと思えてならない。
私には全体がなく細部の累積がある。細部と細部は脈絡がなく、また往々にして矛盾する。それらのありかた、役割、意味もまたばらばらだ。こういう状態を一般には無意味とか混乱とか場当たり的とかいうのだろうが、私自身にしてみるとそれほど居心地がわるいわけではない。これは現代における知のあるべき姿からするともってのほかだろうが、私にはそれなりに納得できている。ただそれをうまく説明できない。
当然の話だが、私たちが自分の考えを他人に語るとき、それがどんな表現であろうと、その思考がこれまでの人類の知の系譜のどのあたりに位置づけられるかを明示することができるだろう。しかし語る本人が明示できるかどうかは別だ。むしろ、よほどの知の達人でないかぎり、自分の思考をどう名づけるか、とまどうひとのほうが多いにちがいない。
一方で、知の構造を知れば知るほど、その知の仕組みに絡めとられてしまう危険も大きくなる。最近、そのような悲鳴の聞こえるような文章をいくつか読んだ。
知との関係において私は愚かだという自覚がある。知の構造も名づけ方もしらない。このような人間がなにかを考えたりそれに基づいて行動しようとするとき、唯一の優位性は、こういう人間に対しては知の陥穽なるものも無力だろうということだ。そしてまた、全体としては愚かで無知であっても、自分の経験と感覚がなにかに触れる一瞬に自分の能力を超えるような知に出会えるのではないかという楽観も捨てきれない。それはちょっとシャーマンめいた感覚でもある。
[PR]
by hatano_naoki | 2007-03-09 10:43 | 日日
<< 沖縄勉強ノート(111)沖縄歴史年表 『アンコール遺跡を楽しむ』改訂... >>