かつてパソコン通信というものがあった(5)
パソコン通信の世界で発信するひとと書かれたメッセージや情報を読むだけのひとの比率がどれくらいだったかはわからないが、読むだけのひとの方が確実に多かったと思うし、ユーザー数の増加にともなって発信するひとの比率はどんどん下がっていったと想像する。
私個人はパソコン通信をはじめて数ヶ月で発信する側になったが、私の推測では活発に書く人ははじめてすぐに書きまくる傾向があったように思う。私はおくてのほうだったはずだ。

パソコン通信での書き込みをはじめた私にとって、書くことはすぐに日常化していった。書かないと不安になるのだった。それは書きつづけないとネット上で存在できないという意識からきているようだった。
ネット上で発信するひとにとっては自己の存在証明という課題がある。
これは発信するひとに特有の課題であって、発信しないひと、ネット上で他者のメッセージや情報を読む(つまり消費する)だけのひとにとっては意識されないだろう。
たとえばブログならばまずブログが存在していること、つぎに常にメッセージが追加され更新されていることによって、そのひとがネット上に存在していることが確認される。そのひとから発信される情報が多量でかつ頻繁で、さらに質が高ければそのひとの存在感は大きく、たまにすこしだけ発信し、しかも質の低い内容ならばは影が薄い。
パソコン通信ネットでは基本的に個人個人は蓄積型の情報空間を持たず、共有される場での発信(つまり電子会議でメッセージを書き込んだり他人のメッセージにコメントすること)を通じて存在証明を行っていた。これはウェブサイトやブログなどの個人所有の発信と蓄積の場を維持するよりもきついものがある。
電子会議はうつろいゆく場だ。ある時期熱心に発言するとそのひとはその会議室を読むひとたちから認知される。認知されることはなかなかにうれしい。ところがそこでしばらく発言しないとその場はもはや自分とかかわりのある場所ではなくなってしまう。自分を知らないひとたちがコミュニケーションに熱中しており、自分はもはやよそ者のようなものだ。過去の「実績」はまったく意味をもたず、今の瞬間どれだけアクティブかが唯一の存在証明ということになる。
現在ではどこかの誰かのウェブサイトやブログを読むだけで満足しているひとはいくらでもいて、そのことがなにかの欠落感を生むことはないだろう。こういう読み物を読む感覚は私にもある。書くひともそれほど気負っているわけではないだろう。
パソコン通信時代の私は自分がアクティブであることに対してある種の切迫した意識を持っていたかもしれない。切迫というのはおおげさだが、場から消えるかどうかはずいぶん違う。
なぜかといえば、パソコン通信では互いのメッセージを読み、相手を認識し、相手のメッセージに反応することを通じて人間関係が作られていったからだ。知らない相手から電子メールがきても判断がつきにくいが、そのひとのメッセージを電子会議で読んだことがあり、あるいは電子会議上でコミュニケーションしたことがあれば、相手は信用できると考えられる。
その意味では、パソコン通信を利用した多くのユーザーの中で、より多く発信したひとはより多くのコミュニケーションチャンスがあったといっていいだろう。
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by hatano_naoki | 2007-04-30 11:21 | ネットとデジモノ
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