一枚の写真
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ここに一枚の写真がある。
撮られたのは1966年11月2日、場所はプノンペンのPTT(Post Telephone and Telegram)の局舎内。PTTは当時のカンボジアの中央官庁のひとつ、公共土木電気通信省の一部局で郵便、電話、電信を管轄していた。
写真は日本製の電話自動交換機の設置作業中のひとこまである。
PTTはその後公共土木電気通信省から分離され、現在は郵便電気通信省(MPTC,Ministry of Posts and TeleCommunications)となっっている。
写っている人たちはPTTの若手スタッフである。当時のエリートといっていいだろう。
日本からやってきたコロンボ・プラン専門家が彼らの先生となり、その指導の下でたちおくれていた国内外の通信網を近代化し増強するための事業が進められていた。
1966年11月というと、サムロート蜂起の少し前である(サムロート蜂起は1967年4月)。
国内では1963年に地下活動に転じたサロト・サルが北東部の森の中で少数の仲間とともに潜伏しながらも具体的な勝利への展望を描けないでいた。隣国ベトナムでは第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が拡大し、米軍は増派につぐ増派を重ねていた。ベトナム軍はカンボジア領内に基地を置き、米軍はこれをたたこうとして空爆を繰り返していた。この頃、シハヌークビルに到着した中国からの援助物資がカンボジア領内のベトナム軍へとカンボジア国内を運ばれていた。戦争は確実に忍び寄っていたのだ。
中国ではこの年の8月18日、天安門広場に紅衛兵が登場し、文革がはじまった。写真が撮られた頃の中国では文革が全土に波及し、「黒五類」の逮捕、摘発、財産や地位の剥奪、つるしあげと自己批判の強制が過激化していた。
こういう時代、プノンペンはあくまでも平和だったようである。
日本は1960年から1970年までのあいだ、カンボジアに対してさまざまな技術援助を行った。
しかしこうした技術援助活動はロン・ノルによるクーデターの起きた1970年に途絶する。その後内戦ははげしくなり、やがてクメール・ルージュが国内を支配する時代がやってくる。
写真に写っている人々のうち、ポル・ポト後に消息がつかめたのはひとりだけだった。彼はベトナムに脱出して生きのびたという。ちなみに1975年以前のPTT職員のうち、1979年に生存していたのは一割強にすぎない。
写真は冗談の飛び交うなごやかな雰囲気の中で撮られたにちがいない。それは彼らの表情から読みとれる。しかしこの写真が撮られてから三年後、カンボジアは内戦の時代に入り、さらにその五年後、あのポル・ポト時代が到来する。
自分の過酷な明日を知らずに微笑む彼らをずっと未来の方向からみつめる私は、彼らの視線にさらされてたじろぐ。どのようなことばをかけていいのかがわからない。

※私はシハヌーク時代のカンボジアに派遣されて電気通信分野の技術協力にたずさわった人たちのうちの何人かに当時の話を聞く幸運に恵まれた。この文章は北川泰弘さん、岩噌弘三さん、坂下隆義さんからうかがったお話、お借りした資料等に触発されて書かれたものである。掲載した写真は岩噌弘三さんが撮影したものであり、文中に出てくるデータは北川さんが作成した資料をもとにしている。
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by hatano_naoki | 2007-05-14 08:49 | カンボジア
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