沖縄勉強ノート(119)等高線を追って
d0059961_048186.jpg那覇、首里よりも南方の地域の地形について少し詳しく知りたいと思い、25,000分の1地形図上の標高50メートル、100メートル、150メートルの等高線(コンター)を赤紫色のサインペンでトレースした。
地形図を見るだけでもだいたいの地勢はつかめるが、こうしてトレースした線が浮かび上がってくると地形図は読みやすくなり、自分が地形をどう読むか、地形から何を感じとるかのてがかりを提供してくれる。すると地形図は読み物の雰囲気を漂わせはじめる。私にとっては、読み物としての地形図は無限のページからなっていていつまでも読み続けられる一冊の書物だ。

標高50メートル、100メートル、150メートルの等高線に導かれて私が地形図をどのように読んだかを簡単に報告しよう。
まず、首里城のある台地について。
台地は櫛を左に向けて置いたようなかたちで、西側からはいくつかの谷が入り込んでおり、南北の方向に長く伸びている。西から東側に向けて高くなっていき、東端で急に高度を落としている(この東側の"崖下"を沖縄自動車道が走っている)。一方、西の那覇の方向に向かってはゆるやかに高度を下げてゆく。
首里城はこの台地のほぼ南端部にある。首里の町は首里城北側にひろがる緩斜面上にある。城の南側は比較的急な斜面になっていて、その底には安里川の支流が流れている。対岸にはもうひとつの小さな丘があり、その上には識名園がある。
台地の北端には浦添城がある。その北側は崖になっており、崖下には牧港川が流れている。つまり浦添城と首里城は丘の背骨部分の高まりによってつながっていて、その北端と南端に位置していることになる。このふたつの歴史的な場所は直線距離にしてわずか4キロほどしか離れていない。

首里の南方には標高20~50メートル程度で緩やかに起伏する地形がひろがっている。その中では八重瀬嶽、与座岳が最高地点である。その周辺はほぼ円形の台地となっている。この高まりは八重瀬嶽北側がいくらか急峻で、そのほかはゆるやかだ。
またいくつかの小さな丘陵が点在している。
これらの丘陵は集落との関係において伝統的な役割を果たしてきたにちがいない。つまり集落を守る祖霊の鎮まる森である。そのすべてが聖域だとはいえないかもしれないが、村はいずれも小さな丘のそばにあり、その多くが北側に丘を背負って立地している。
国吉、照屋、真栄里、伊敷、小波蔵、糸洲、喜屋武、束辺名、米須、真壁は北。大里は西、少なくともこの中のいくつかは御嶽の森であるはずだ。
(これについては別に調べてみたい)。
これらの丘はほぼ東西方向に細長く伸びているものが少なくない。
摩文仁集落の南の海際の丘はこのあたりではひときわ高く、標高90メートル近くもあって、32軍司令部がここを最後の地としたのもうなずける。

島尻南部の地形を見るとき、古くからの村落共同体の記憶を体現する小丘(=うたきの森)の存在に注目せざるをえない。その同じ丘が沖縄戦においては攻防戦の主戦場となった。聖域が白兵戦の舞台だった。この聖域=戦場という関係は、ガマや墓(亀甲墓)においても同様だった。祖霊の聖域がもっとも激しい戦場であったとは、共同体にとってなんと悲しいことだろうか。
こうしてみると、本島南端部に散在する集落は古い歴史を持つものが少なくないようである。
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by hatano_naoki | 2007-05-18 00:28 | 沖縄勉強ノート
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