インターネット上で偶然、叔父の名前をみつけた。
会ったことはない。第二次世界大戦中に戦死しているからだ。 この叔父については父親が生きていたときにいくらか聞いたことがある。父親の弟にあたり、海軍兵学校を出て潜水艦に乗り、フィリピン沖で死んだが遺骨は戻ってこなかったという。彼が兵学校にいたとき、母親は文字が読めなかったにもかかわらず新潟県の山中の家から広島の江田島までたったひとりで会いにいったという。 彼の写真を見たことがある。軍服の写真だった。立派な体格で、いかにも軍人だった。 インターネット上でみつけた情報を総合すると、彼は海軍兵学校の第71期で、昭和17年11月14日に卒業した581名の中のひとりである。伊号潜水艦(伊26。正式名称は伊号第二六潜水艦。形式名称は伊一五型)に乗り、昭和19年10月にフィリピン東方で乗艦が米軍に撃沈されて戦死した。フィリピン沖海戦(10月24日~25日)での戦死のようである。 Wikipediaによると伊26潜の戦歴は次のとおりである。 1940年4月10日進水、1941年11月16日竣工。1942年11月13日、米軽巡洋艦「ジュノー」を撃沈。ほかに米船「シンシア・オルソン」「コースト・トレーダー」、ユーゴスラビア船「レシナ」、オーストラリア船「コアラ」、英タンカー「トーンズ」、米船「アルバート・ギャランチン」、米タンカー「H・D・コリアー」、ノルウェータンカー「グレナ」、米船「リチャード・ホベイ」を撃沈している。 レイテ沖海戦に参加し、1944年10月27日に消息不明となる。1945年3月10日、戦没認定され除籍。 撃沈された日付と位置については、「1944年10月25日スリガオ海峡で米駆逐艦の攻撃を受け沈没」という記述もあった。 叔父がいつから伊26潜に乗っていたかはわからない。 伊一五型潜水艦については、おなじくWikipediaによると、大日本帝国海軍が最も多く建造した大型潜水艦であり、20隻建造されたという。全長108.7m、全幅9.3m、排水量は水上で2,198t、水中3,654t。最大速度は水上で23.6kt、水中では8kt。 水中航続距離178km、水上航続距離25,900km。兵装は53cm魚雷発射管×6(魚雷は17 )、14cm砲、25mm機銃×2、水上偵察機を搭載していた(諸元、兵装は艦によって多少異なっている。伊26の正確なデータは現時点ではわからない)。 なお同型艦は伊号第三六潜水艦を除きすべて沈んだという。 叔父は戦死したとき大尉だった。おそらく、95名程度の乗員の中で艦長、機関長、水雷長に次ぐ地位である航海長か砲術長だったのだろう。 それから63年が経っている。 潜水艦の戦いはいくつもの映画になったが、それは潜水艦がさまざまな意味で極限的な兵器であり、その中に生きる人間もまた死の直前に極限を目撃する人々であったからだろう。 水中に潜んで戦い、爆雷攻撃を受け、そして死んでいく恐怖と孤独を想像するだけで崖の縁に立つような戦慄を覚える私は、写真でしか知らない叔父の死のありさまをいくつかのウェブサイトに求めながら、奇妙にリアルに身近に感じていたのだった。
by hatano_naoki
| 2007-05-22 20:18
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