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アンリ・カルティエ=ブレッソン
 アンリ・カルティエ=ブレッソン_d0059961_7105974.jpgバイ・マンスリー誌『Pen』7月1日号でアンリ・カルティエ=ブレッソンの特集をやっている。
ちょっと前に『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集成』(岩波書店)によって、これまで断片的にしか知らなかったこの作家の作品をまとめて見ることができたのだが、その中の何枚かが『Pen』にも掲載されていた。東京国立近代美術館でもあさってから回顧展が始まるし、銀座のライカではオリジナル・プリントを展示している。実物に触れる機会がいろいろあって楽しみだ。
カルティエ=ブレッソンはいまや伝説的な作家であるので、どの作品にも歴史と名声のオーラが見える。もはや自分の目で鑑賞すること自体がむずかしくて、結局は賞賛する以外ない。
世界的に有名なあらゆる芸術にはこうした防壁のようなものがあって、自分の眼力も審美眼も全部吹き飛んでしまう。世間がそういう評価だからいいと思わなければならない。自分の目など信用できない。あてにならない。
そういうわけでカルティエ=ブレッソンが本当にすばらしいと断ずることは私にはできないが、写真を見ていくうちに私の内部にある感覚の芽のようなものが刺激され、その結果生まれた私固有の感慨として、そこに一貫した世界観があることが感じられてくるし、これはかけがえのないアートだと思いたくなってくる。
たとえば『Pen』の表紙を飾っている写真は、タイトルは忘れてしまったけれども、おそらく1930年代のイタリアかスペインかどこかで撮られたものだが、写しとられた人物の配置はまるでそこに人物を配置したかのようである。といって作者がこの場所で長時間にわたってこの瞬間を待っていたとも思えない。実際はどうかわからないが、簡単に撮ったように見える。撮るまでの"苦労"が見えない。カルティエ=ブレッソンをめぐることばとして「決定的瞬間」というのが有名だが、この写真はいわゆる「決定的瞬間」を写しとったと評価されるだろう。
単純な感想として、では私はどのようにして「決定的瞬間」に出会い、それを確実に写しとればいいのかという問いが生まれる。もちろんその前に「決定的瞬間」には価値があるのか、それを撮るべきなのかという問いがあるのだが。
私個人は「決定的瞬間」を意識しないできたのだが、カルティエ=ブレッソンの写真を見ているうちに「決定的瞬間」を写すことの愉悦のようなものがあると思えてくるし、自分なりに「決定的瞬間」を意識した写真を撮ってみたいとも思うようになった。そしてまた「決定的瞬間」の大きな要因が写しとられたひとたちの表情、姿勢、動作、配置、相互の関係にあること、つまり人間を写しとることにあると、カルティエ=ブレッソンの写真は教えているように思われてきた。
by hatano_naoki | 2007-06-17 07:13 | カメラと写真
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