ブログで「人間」に出会う(2)
ブログを読みながら、私は会ったこともない他人の人生を見続ける。
その人はいわゆる有名人でもなく、いわば市井のひとである。こういう他人との関わり方はパソコン通信が始まったときに現れ、私は生々しい他者の吐息に出会った気がしたものだった。
朝のラッシュアワーの人ごみの中のひとりひとりは周囲の他人を知らない。都会は知らない他人に囲まれていることによって孤独を知り、自由を獲得する。
だが、顔の見えない「大衆」がひとりひとりの生々しい肉声を発し始めるとき、世の中は変化するだろうか?それがネットのもたらすもののひとつだと私は思っていた。
個人のブログは基本的にそのブログを開設し記事を書き込んで運営するそのひと個人のものである。日本ではその多くは日記に近い形式をとっているが、ある外国人からそれは日本人の歴史的な伝統に根ざした傾向だという指摘を受けたことがある。
日本人の日記好きを他の国々と比較したことはないけれども、たとえばブログの場合でも、そこに個人の感情や感慨を盛り込もうとする傾向はあるかもしれない。
多くの他人のブログを読むならば、それはいくつもの人生に寄り添って生きることになり、他者を否定するのではなく理解し肯定する方向に向かうだろうと私は思っている。
つまり日記型ブログでは相互の理解を促進する効果があるはずだ、と。
それはつまり個人の日記型ブログが「ケ」の個人メディアであることを意味している。連綿と続く自己表出の中で本音を隠し通せるものではないし、失言も言いすぎもあるはずだ。そこに人間性が見えてくる。個人メディアであるブログではこういう観察がしやすい。
先のアーティクルで書いたように、私の場合はこの点に関して幾重にも防衛線を張っているのだと思う。それは私のネットとのつきあいかた、ネット観、ネットにおける行動規範みたいなものだ。
とあるブログを愛読する私がそこでコメントを書かず、書き手にメールを送ることもないなら、その人は私の存在すら知らないはずだ。しかし私はその人のイメージを私の内部に育て、その人の人生を見つめている。
こういう人と人との関係ともいえない関係がインターネットの中で無数にできあがっているはずだ。
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by hatano_naoki | 2007-07-05 19:21 | ネットとデジモノ
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