Googleを散歩して生と死に出会う
d0059961_2039376.jpg最近、オレってジャイナ教徒なのか?と思うくらい、生き物の殺生が気になる。殺された牛も豚も食らっているし、ゴキブリも叩いて殺しているが、私の内部における生の重さは確実に増している。それは年をとり、死ぬまでいくらもないからだろうといわれればそれまでだが、なにしろ生き物の命が大切に思えるのは事実だ。
インドのラジャスタン州に行ったとき、ジャイサルメールという町でジャイナ教の寺院に入ったことがある。砂漠の中に建設された中世の城砦都市の内部にある石造の寺院だったが、入口で「ベルトを外せ」といわれた。そのベルトは皮製だったので、戒律で殺生を禁じるこの宗教においてはタブーだったのだ。その寺院の内部の静謐はすばらしく、ひとりの男が床に座って柱に寄りかかり、抱えた小さな太鼓のような楽器を打っていたがその音すら静謐の一部であるかのようだった。
ジャイナ教は仏教と同じくらい古い宗教だが、血を吸いに来る蚊を殺さないためにうちわで風を送って払うというくらい殺生を避けるのが特徴のひとつだ。ジャイナ教寺院に上ったとき20代半ばだった私は不殺生の戒律を面白くは感じたもののそれ以上考えることはなかった。しかしそれから三分の一世紀が経って、私の内部に不殺生の意識が育っているのをただ単に面白く感じることはない。
ジャイナ教の教義といっても事実上なにもしらない私はちょっと"ググって"ジャイナ教とはなにかということについて調べようとした。ここでもWikipediaは役に立つ。ジャイナ教をテーマにしたウェブサイトさえあるのには驚いた。物好きはいるものだ。この不思議な人物はいったい何者かとこのひとの日記を見ていると、今は重い病気で臥せっているという。彼は白血病らしく、私はまたしても人生の変転に遭遇することになった。
闘病記というジャンルがインターネット上に存在する。闘病にはドラマがある。その日々が日記の形式で提供されるなら、作り物を越えた個人の作り出すドキュメンタリーとしての迫真性が読む人に迫ってくる。一方でネットで闘病記を書くこと、そのひとを励ます人とコミュニケーションするひとがいることは闘病にとってプラスの効果をもたらす可能性があるだろう。
ジャイナ教について調べはじめた私は半ば偶然に導かれながら、まがりくねった検索と思いつきの連鎖のあとで結局、白血病の闘病記に行き着くことになった。無理やり理由づけするなら、私は生きること死ぬことを追ってインターネット上をさまよっていたのかもしれない。

写真:Google Earthによる城砦都市ジャイサルメールの空中写真。今は市街地が城壁からあふれだしている。
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by hatano_naoki | 2007-07-07 21:09 | ネットとデジモノ
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