粉末化するカエル、風葬
我が家の近所には池らしい池はないはずだが、昔からカエルをよく見る。玄関の前に座っているのを見るときもある。道路にはときどきカエルの死体が転がっている。車に轢かれたのだろうか、丸々とした腹からはらわたが出てしまっている光景は無残に映る。
その死体はしばらくすると干からびてひらぺったくなっていく。生々しさは消え、干物のような物体に変化して、情緒的な存在ではなくなっている。干からびたカエルの体は、その後も道路の上に存在しつづけるが、乾いた体の上を車が何度も通りすぎるうちにしだいに体の一部が欠けていく。粉になっていく。粉は風に舞い、どこかに飛んでいく。やがてカエルの姿は路上から消える。誰かが片付けたとも思えないから、完全に粉になってしまうのだろう。
こうして生々しい腹をさらしていたカエルが時間の経過とともに粉になって消えてゆくのを子供のときから見てきた。それはいわば日常の光景であり、とくに鮮烈な印象であるとかそういったものでもない。だが最近のある日、生き物の運命とはああいうものなのだと、急に思ったのだ。
風葬という弔いのかたちがある。人々は死者を野に運び、そこに置いて去る。水分で潤っていた人間の肉体はやがて野生動物によって撹乱され、陽に焼かれて乾いてゆき、骨だけが残る。野に晒す弔いはいわば亡骸を乾燥させることを目指している。
死者とは乾いてゆく存在であり、こなごなになって風に舞い、消えてゆくものである。それは私個人のレベルにおいてはある種の発見であり、死に対する恐怖をいくらか和らげる効果をもたらした。私が風葬になる可能性はほぼゼロだが、どこかの山中で行き倒れたなら、事実上の風葬になるかもしれない。世間的には不慮の死といわれるだろうが、粉末化し風に乗って飛んでゆく私自身は不幸ではないと思う。それからふと、どこかの原野に倒れた自分の遺骸が朽ちてゆくのを超微速度撮影した映像を想像してみる。
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by hatano_naoki | 2007-08-27 12:09 | 日日
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