風の盆
風の盆がはじまった。
ずっと以前からこのさびしげな盆の行事を一度は見てみたいものだと思っている。記録された映像や写真や、知人の体験談などを通じて、どのような行事であるかをなぞることができ、まるで見てきたような気さえする。しかし行きたいと思い、ためらいがあり、結局行っていない。
風の盆は静かな行事であり、そこに住む人々が自分たちのために行う色彩が強いと感じられる。にぎやかな外向的な祭であれば話はだいぶ違うだろうが、風の盆は小さな町のひそやかな行事であるために、そこに行くことで闖入し紊乱し異物となるかもしれないという気がしてならない。
ずっと昔、秋山郷でちいさな夏祭りにであったことがある。夜、村の神社の境内で行われた盆踊りは暗い明かりの下で小さな輪を作って踊られ、その所作は私の目には独特で古い時代に形作られたように見え、決して陽性とはいえないさびしげな雰囲気を漂わせていた。隠れて踊る気配もあった。あえていうなら民俗的雰囲気がそこにあったのだ。
私は自分が伝統的な文化に対する闖入者だと感じていた。そこにいたのは大半が年老いた村人か、村から出て働いていて盆に帰省したひとびとだったと思う。フラッシュをたく観光客はそこにはいなかった。力関係のはかりは明らかに村の側に傾いており、私は小さくなってなるべく目立たない位置にいた。
その後この祭が有名になり、観光化したかどうかは知らないが、仮にそうであるなら、次第に増加する観光客とのバランスがあるとき崩れたのだ。その瞬間に祭は変質し、見る者の視線が状況を紊乱するようになるが、マス・ツーリズムはこの地点をほとんど無意識のうちに通過してしまう。
風の盆は街路を埋める観光客のあいだをすり抜けるようにして踊られるものではなかったはずだ。私の心象の中でいうなら、踊る者だけがいて見る者のいない行事。
風の盆はいまやとても有名だが、その評価はもともとその質と雰囲気に拠っており、少なくともその静かな雰囲気は大きく損なわれているに違いない。それでも風の盆を見たいと熱望する私は自分もまたマス・ツーリズムの恩恵を受けていること、つまり行くことで壊す側に立つことを強く意識する。わたしひとりが行く行かないでなにが変わるわけでもないが、これはジレンマだ。
ところで、実際には風の盆はもっとしたたかかもしれない。私がくよくよ思っているあいだも、静かな踊りはゆるりと狭い路地を進み、胡弓の響きは見物人のざわめきにかき消されながらも音そのものは生きつづけ、結局のところ、八尾の町と踊り手たちからみれば見物客は存在しないのかもしれず。
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by hatano_naoki | 2007-09-01 23:57 | 日日
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