思考の星雲(11)
ある事実、ある対象について考えるとき、それをめぐる私(たち)の想念、心の中で育てたイメージは、次第にひとつのストーリー、ひとつのまとまりをかたちづくっていき、やがて対象についてそこそこ自由に語ることができるようになる。
だが、そのイメージなるものと事実あるいは対象の実体との関係はどのようになっているのか。そのイメージは事実を的確にとらえているのだろうか。
私には「事実」あるいは対象の周囲を周回する行為であるように思えてならないし、そのひとの内部に育ったイメージというものが事実らしきものの姿をしたひとつの物語であると感じられる。もちろんその物語には良質ものもあればそうでないものもあり、私たちは良質のものを嗅ぎわけ、受け入れて共通の知的資産としていくわけだ。
そう考えると、ひととひととの理解はそれぞれの抱いている内的世界とそこにあるイメージの交換に立脚していて、これらの内的世界とそこにあるイメージはひとの数だけ存在するから、相互の理解というのはなかなかむずかしいに違いないと思えてくる。たとえばあるとき私は他者とのコミュニケーションとはいわばお互いの内部世界に蓄積した物産の交易であり、それまでに見聞してきたいくつもの異郷の姿について語ることであると思いついたのだった。
では、それぞれの抱くイメージがユニークなものだという考え方は正しいのだろうか。なぜなら、概念的にはそうだろうが、現実的にはあるひとの内部世界とは、その少なからぬ部分は、外からの影響を受けたある種のステレオタイプではないのかという疑いが消えないからだ。ステレオタイプというのは相手との共通項になることによってお互いの理解を早める(深めるではなく)機能を持っているのかもしれない。
[PR]
by hatano_naoki | 2007-09-09 06:53 | 日日
<< 駅舎の柱に使われている古いレー... 昼寝3 >>