私はなぜ、何を書くのか
メタ議論(?)が好きな私は、自分がなぜ、何を書くのかという問いを発することを不自然だとは思わない。
まず過去を洗ってみる。自分がこれまでなにを書いてきたかを思い返すのはそれほど難しくない。20代の終わり頃に旅行記のようなものを自費出版したことがある。出版とはいえないほどの薄く簡単な冊子だった。400字詰め原稿用紙にして100枚ほど書き、それまでに書いたもっとも長い原稿となった。
商業出版として最初に出したのは「パソコン通信操作術」(1991年、ソニーマガジンズ)というパソコン通信の解説書だった。
それからやはりパソコン通信関係の「ビジネスマンのためのニフティ・サーブ」(ASCII)を共著で出した。そのほか一、二のネット関係の本を書いた。
その後、在宅ワークをテーマにした「テレワークで仕事が変わる・会社が変わる!」(1998年、日本実業出版)を共著で出した。
2003年には「アンコール遺跡を楽しむ」(連合出版)を出した。
最初の本から15年近く経つのにろくな結果を出していないことになるが、それでも多少は自己評価できるのは「アンコール遺跡を楽しむ」で、この本にいたってようやくある程度書きたいことを書く方向に進み始めたという気はする。この本は「日本のロンリー・プラネット」(注)を意識して書いたものだ。
では一体どういう本を書きたいか。
現時点ではいわゆるノンフィクションの領域の本を書いてみたい。紀行も書きたいもののひとつだ。
現在、文章を書くのはウェブ上が多い。一銭にもならないが、自分にとっては呼吸のようなもので書かないと生きていけない。
単行本は時間ばかりがむやみにかかる。本を書くということは自らに大きな負担を強いることになる。今書いているのはカンボジアの紀行的な文章で500枚ほどの量だがすでに2年もかかってまだまとまっていない。仮題は「カンボジア・ノート」という。出してくれるところはまだ見つかっていない。「アンコール遺跡を楽しむ」も書くのに1年半かかっている。
しかし文章を切り売りして生活することに魅力を感じているわけではない。しっかりした文章が書きたいだけなのだ。そこで才能の壁に激突することになる。
なぜ書くのか。
書く行為が自分にすでに埋め込まれていて、特別のものではないという気がする。書くことが当たり前で、書かないことのほうが不自然に感じる。文章を書いて感じるある種のカタルシスが確かにある。特に長い文章を呻吟の末に書き終えるときの開放感が好きだ。

(注)ロンリープラネット=英文の旅行ガイド。一種の文明批評的な側面を持ち、日本の旅行ガイドとは比べ物にならない。

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蛇足だがこの画像は細身のイタリア製万年筆アウロラ。ずっと前、デザインにほれてピサの町で買ったが、今ひとつ書きにくい逸品だった。
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by hatano_naoki | 2005-05-31 19:49 | 日日
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