考えようとする午後
ただ息をしていることすら輝いてみえる気のする土曜の午後、西武新宿駅のコンコースを見下ろすスターバックスコーヒーの一番隅でウディ・アレンに似た風貌の白人の男が何も書かれていないスパイラルノートを前にして呻吟する。彼はあるまとまった思考をいくらかでも進展させるために考えを絞り出そうとしているかのようだ。
わたしは考えるべきことはなにかを考えるためにやってきた。なにかを考えなければならないことはわかっており、そこに集中することを始めれば新しい契機になりそうな気がしている。それは結局のところ書くための助走だが、何を考えるべきか考えることは実に楽しく、その時間そのものが意味をなさないのは理解しているものの、目の前に無限の可能性があるように思えてその時間の中に堕する危険を感じる。助走ではしかたがなく、しっかりしたものを書き出すことを自分には求めているわけだ。
書くことは自分の内部にある星雲に輪郭と名前を与えることだし、考えることは自分が生きていることを確認する作業にほかならない。なにより、最近気づくと背中を軽くこづいているやつがいるのだ。いったい何をしてるんだと言わん気なこづき様だ。さあ書け、なにをもたもたしているのか。そこでしぶしぶ腰を上げかける。オレだって書きたいんだよ。しかしどうもきっかけがつかめない。いくつとなく書き始めてみたが、どれも霧のように消えていってしまった。これはたぶん文章力の問題ではなくて、書くべきテーマが成熟してきているのかどうか、あるいは切り口についての戦術戦略の問題だということもできる。たぶんそうだ。そうであるならばやはりまず考えをまとめなければならないわけだ。
視線を上げるとウディ・アレンの姿がない。彼が考える姿は考える行為を視覚化すればこうなるというような感じの、実に考える姿だった。将来わたしが映画を撮るならその姿を借用するだろう。わたしはといえばただ呆けて座っていただけだ。外形から入るというおまじないをかける必要があるかもしれない。
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by hatano_naoki | 2008-05-11 06:34 | 日日
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