だれも来ない掲示板
秋葉原で起きた殺傷事件の加害者は携帯サイトに掲示板を作り、そこに短いメッセージを集中豪雨のように書き込んでいたという。報道はその行為が彼の孤独を象徴しており、また行為自体が常軌を逸しているといいたかったようだ。加害者は人間関係が希薄であり、インターネット上でも相手にされなかった。掲示板を見た誰かに止めてもらいたかったと彼がいったという報道もあったと思う。
彼が作った掲示板にはおそらくほとんど訪問者がなかった。誰かが読んだとしてもメッセージの内容から現実の殺人事件への発展を予想するのは難しかっただろう。わたしが偶然その掲示板にいったとしても彼を説得して犯罪の実行をとめることはせず、警察に連絡することもなかっただろう。書かれたことは本当かもしれないが空想の産物かもしれない。書かれた事柄を半身にかまえて見る癖がついている。ネットがそういう場所であるということくらい、今では子どもでも知っている。それなのに加害者は自分のメッセージを読んだ誰かが止めてくれるのではないかという淡い期待、他者への期待を持っていたのだろうか。
掲示板であれブログであれウェブサイトであれ、ある場を作る時、だれもがいくらかの期待を抱くはずだ。場を作ることがコミュニケーションを生み出し、自分がそこにおけるコミュニケーションの主人になれる気がする。単にどこかの掲示板に書くときであっても、基本的には似たような心理が働いているはずだ。
しかしいくら待っても誰も来ず、書かず、コメントしない。するとそのこと自体、自分が無視されているということの証だという気がしてくる。広いネットの上で自分くらい孤独で無視された存在はいないというくらいの気分になる。ネットの心象が個人の内部に生まれて育つものである以上、こういう心理状態は特殊でもなんでもなく、誰もが感じるものだ。実際にはネット上のコミュニケーションの場は指一本で作り出せるが、そこに息を吹き込み、生き生きとした雰囲気を保ち、そこで実際にコミュニケーションが生まれてなにかが動き出すように注意深く見守り続けるにはずいぶん手間がかかる。
話は変わるが、わたしが思うには開設したブログをやめてしまう理由のひとつは自分には書くべきことがないことに気づくからで、もうひとつは他人の目が感じられないからだ。いまやわたしたちはネット上で情報発信の場を簡単に手に入れられる。その代表格がブログだが、場が手に入ったからといってそのひとに発信したいこと、表現したいことがなければその場が機能しないのは当然のことだ。見捨てられたブログが山ほどある最大の理由(=個人の内的要因)はこれだと思う。ただしすこしやさしい言い方をすれば人間は意外に自分を発見していないことが多い。ブログに書くことがないと思っているひとでも、自分をうまく発見できれば、書くこともまたいくらでも見つかる可能性があるだろう。
ブログが廃れるもうひとつの原因(=外的要因)は、他人の気配か感じられない、つまり読みに来る人がいない、コメントがないことだろう。世の中のブログの大多数は固定的な読者を持っているというわけではない。特定のキーワードから検索結果をたどってほとんど偶然のように迷い込んでくる訪問者がいるかもしれないが、それは一過性のものだ。正確なデータを持ち合わせていないけれども、ブログもウェブサイトもアクセスが集中するのはごくわずかのサイトにすぎず、その他の大半のウェブサイトやブログでは閑古鳥が鳴いているはずだ。
一方でブログをきわめて私的な場として作り、使うひともいる。他人とのコミュニケーションなど最初から期待していない。ひとりでつぶやくための場所であればよく、一人暮らしの部屋に帰ってただいまというような気分で愚痴をいったりすればそれでいい。完全に閉じているが一定の充足と安定がある。こういうブログもまた少なくないはずだ。
わたしにはあの事件の加害者に見えていた社会やネットがどのような姿をしていたのかはわからないが、自分という存在がはじめから破滅してゆく者として規定されていて、そこにいたる過程のひとつとして掲示板が準備されたように思えてならない。自分がいかに世間から相手にされない余計者であるかを確認するためのツールであった携帯の掲示板は、結果としてうまく機能したことになる。だれも来ない掲示板に殺人行為の実行までの過程を書き込み続けながら、彼はどのような心理状態にあったのだろうか。少なくともわたしが目にした一部からは興奮や激昂は感じられず、そのかわりに奇妙な静けさがあった。そこに希有の殺人事件実行直前のある種の充足感、強烈な負のエネルギーが漂っているような気がしたのは錯覚だろうか。
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by hatano_naoki | 2008-07-13 21:22 | ネットとデジモノ
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