イメージ消費についてのメモ
イメージ消費ということばの定義とか使われる文脈について整理する前に、まずは思いついたことだけを順不同でメモしておく。
あるもの(あるいはひと、場所、etc.)の実体ではなく、イメージがことさらに拡大され、大量に生産され、無批判に受け入れられ、再生産されていくメカニズムがマスメディアだけでなく個人的なレベルでも働いている。わたしたちは実体ではなくイメージを食らい、イメージを吐き出す円環の上にいる。そういう需要が根強いのか、より大量に消費させることに存在価値があるしくみが自己増殖しているのか。
たとえば芸能人は消費すべきイメージを生産し提供する典型的な存在だし、観光地もそうだろう。日本百名山や世界遺産という冠がつけばイメージはどこまでも肥大化し大量消費の恰好の対象となる。おとな向きの雑誌には隠れ家的な高級旅館に泊まるとか、本格的なバーに行こうとか、豪華客船での船旅とか、大多数にとって不可能ではないにせよすぐに実現できるわけでもない生活のカタログが載っている。そういう本を何百円か出して買えばそこにあるイメージを時間も金もかけずしごく安全に楽しく消費できるわけだ。見たくない現実が捨てられた上で目の前に差し出されるイメージは、口当たりがいいようにうまく調整されているし、あまり考えなくとも口を開ければ食べさせてもらえるようになっている。
イメージの消費というのは対象となる実物がなくとも可能だが、実物が目の前にあってもイメージを消費しているにすぎないという状況がいまやあたりまえになっている。それは実物を目の前にしたときに一種の既視感があり、なにか薄い膜のようなものにつつまれているように感じることでもあって、常にいくらかのわだかまり、割り切れないものを残すが、現在のわたしたちはそういう構造にからめとられてしまっているようでそこからどうやって抜け出せばいいのかがわからない。
ここまでは消費者の側の話だが、一方で消費の対象物、消費される側は現代におけるイメージの大量消費という怪物に立ち向かわなければならない。イメージの徹底的な収奪の結果としてさらなるイメージを生産できなくなれば、退場しなければならない。あるいは流布するイメージに合わせて自分自身を改変していくことも珍しくないはずだ。
そういう状況にあって、わたしは自分の目で見て自分の感受性で受け止めているのだろうかと考える。誰かがなんらかの意図で(その多くは利益の追求の結果あるいは「政治的意図」の結果だろうが)生産したイメージを消費しているにすぎないのだろうか。無数の鏡で囲まれた世界に生きているようにも感じられる。
にせの体験、にせの感受性、にせの思考とアイデアをすべて排除することなどできはしないが、受け入れる前にいくらかの戦いがあってもいいだろう。こう考えるとき日々はイメージの正体を知ろうとする果てがないようにも思える作業の連続で、そのあとには結果を腑分けするこれもきりのない作業が待っている。
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by hatano_naoki | 2008-09-06 07:31 | 日日
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