どう生きる?
わたしが生きてきた世界は、日本については戦後の復興、高度成長、バブルとその後の経済破綻、そこからのゆるやかな回復、そして現在のおそれおののく社会へと変容した。この間、世界の枠組みも冷戦から冷戦後のアメリカ一国集中へ、そしてテロリズムに対して打つ手を見出せない「枠組みなき世界」へと遷移してきた。この六十数年、それなりに大きな変化があったわけだ。しかし今の状況というのは、われわれが今までに見たこともないなにかすさまじい破滅が起きる直前であるような、そういう気分がひたひたと押し寄せている。
マスメディアを通じて入ってくる情報から判断するかぎり、世界的不況が恐慌に化け、おそろしい経済破綻が蔓延するのではないかという気分が地球全体をおおっているように見える。というのも、自分が一次情報を収集分析しているわけではなく、テレビの前でああだこうだと分析する番組やニュースの断片を食事の間に見ているだけだからだ。そのときわたしの中では思想を喪失した世界に対する失望と世界規模のマネーゲームに対する憎悪にちかい感情がわいているが、食事が終われば忘れてしまう。マスメディアに対する信頼感はまったくなく、メディアから水道の水のように流れ出てくる情報に内在する錯誤や操作を疑うが、それを検証するほどの根性もない。
それにしても、たぶん、おそらく世界の経済システムは不安定になっており、さらに悪化する可能性が高いにちがいないだろうと想像する。なによりも人々がおそれの気分を抱き、そのような気分に基づいて行動するので、振り子の触れはあっという間に大きくなり、おそれていた方向に事態が遷移していく。
こういう経済状況の只中で世界がおよそ基本的な思想を喪失しており、混乱が広がり、それにもかかわらず新たな思想を見つけ出していないのは偶然ではないだろう。両者は相乗的に働くのかもしれない。
ところで、暗雲たちこめるという表現がぴったりな世界を生きるにあたって、典型的な傾向である萎縮、排除、孤立ではなく、カラ元気ということでもない別の態度というのはないのだろうか。それがあるように思うし、そういう状況の中での行動様式に関する個人的な感覚がある。
これから大きな波動がやってきて平穏な日々が失われ、いわば非常事態が起きるなら、平時における価値観や行動様式は無意味になるだろう。ところがそのようなおそれは、実はまったく別の感情と表裏一体になっているようなのだ。それはいってみれば動乱を待望する気分であって、あまりにも平穏が長く続いたために生き延びる知恵が退化してしまっている社会の中で、自分だけは平時に向いていないと思って生きてきた節がある。
実際に混乱した社会が現出したとき、自分の未知の能力が発揮されるのかどうかはわかりはしない。まっさきに野垂れ死にするかもしれないけれども、そういう状況を想像するときちょっとした昂揚感があるのは事実だ。
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by hatano_naoki | 2008-12-30 18:17 | 日日
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