なぜブログを続けるのか(3)
このブログは2005年5月にはじめた。はじめた経緯はこちら。
http://stowaway.exblog.jp/5445087/
その後、なぜブログを続けるのかについて簡単な記事を書いたことがある。
http://stowaway.exblog.jp/5824795/
で、それから1年半くらいが経ち、現時点でブログをなぜ書くのかと問いかけてみる。

まず誰に向けて書いているのかといえば、かなり自閉的であるのは否めない。オープンでありながら閉じており、内省的な側面を持つ。これはどうせそれほど読まれていないんだからという気楽さによるわけで、かりに数万の読者がいたら内容はそれに影響されてずいぶん変わっていくことだろう。だからこの問いに対する答は「仮想の読者の視線を感じつつ自分のために書いている」ということになる。少数であれ、誰にも読まれないのと誰かに(それも不特定多数の誰かに)読まれるのとではずいぶん違う。かりに非公開のブログを続けるかといわれたらそれは無理だと答えるだろう。つまり他者の存在、他者の視線がブログを続けるエンジンになっている。
こういうふうに見えざる他者の視線の中で個人の意見や感性をさらすという表現の形式はネットが大衆のものになって定着したわけだが、そのためのメディアは移り変わってきた。もっとも初期にはメーリングリストや電子会議がその役割を果たしたが、これらは基本的に個人主体のメディアではなかったわけで、いわば公園で演説したりパフォーマンスするような行動だった。個人メディアが現れたのはウェブサイトが個人レベルで作れるようになったときだろう。ウェブサイトは基本的に対話的ではなく情報展示的であるので、個人が他人に煩わされずに自分の意見を公開することができたから、これも新しい体験だった。わたしも個人が主体であるこのメディアにとまどった記憶がある。個人ウェブサイトがそれほどのひろがりを見せなかったのは、作るのも維持するのも手間がかかったのに加えて、本質的には発信すべきなにものかを持ち、かつ発信の意欲を維持するのがむずかしかったからだろう。ウェブサイトの場合も、発信の意欲を維持するにはやはり他者が必要だった。これに対してブログはさまざまな意味でハードルが低い。開設者の動機や意識が高くなくとも作れるし、維持管理の手間も極小だ。自己表現、自己発信の意欲が低くともその内部に自閉できる。
日本語で作成されたブログの総数はたぶん1500万はあるだろうが、そのうち数は忘れたがかなりの割合で更新されずに放置され、廃墟になっている。簡単に作り、すぐに投げ出す。実際に更新され続け、数はともかく読者がいるようなブログは1500万のうち1割もないのではないかと疑う。
ブログといいうメディアになれるまでにはずいぶん時間がかかった覚えがある。どうにもなじめなかったのだ。今はなんとか慣れて、読み返してみると主に自分の視点、意識、発見、思いつきの防備録として使っていることがわかる。日記といえば日記だが、個人的な事情にはそれほど立ち入っておらず、ただし意識についてはある程度深入りしているという印象だ。最近は写真を多用しており、日々撮った写真を自分の記憶の補助装置として用いている気配もある。
いずれにせよ、個人的な性向そして小なりといえども表現することで生きていくという傾向があるわけで、ブログは表現の一環であることはたしかだ。一方で、ブログでちょっとした文章を書くような繰り返しで日々が流れていくことに焦りのようなものを感じる。書く作業がいつまでもはじまらず、その予告ばかりやっているというわけだ。ブログで書いたものに手を加え、まとめて本にするというような考え方もあるだろうが、今のところはそういう気分にはなっていない。そう考えると、ブログは雌伏の場であるのだろうか。
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by hatano_naoki | 2009-01-03 09:19 | ネットとデジモノ
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