英雄の誕生
英雄は自然に生まれてくるのではなく、時代が生み出すものだと改めて感じたのは、asahi.comの記事だった。
ニューヨークのラガーディア空港を離陸直後のジェット旅客機のエンジンが鳥を吸い込んでトラブルを起こす。推力は失われ、高度が十分にあがっていない離陸直後のジェット機は人口の密集する都市部の上空を滑空しながら着陸地を探すしかない。機体はハドソン川にスムースに不時着水し、死者はゼロだった。勇気と冷静さと職業的スキルが結びついた結果であることはまちがいない。
すると機長への賞賛がはじまる。機長をめぐるいくつもの英雄的エピソードが語られ始め、それらがマスメディアを通して拡大再生産される。「事故後、フェリーターミナルに座り、何ごとも起きなかったかのように制帽をかぶってコーヒーをすすっていた」「乗客が全員、脱出したかどうか確認するため、2度機内をくまなく歩き、最後に避難した」・・・やがてノンフィクションが書かれ、それが映画化されてハリソン・フォードが機長を演じるだろう。
不安な世相の中で汚れていない英雄が現れることがどれほど世の中を明るくするか。アメリカは英雄を求めていたのだろう。英雄はアメリカの経済を救いはしないがあたりを明るくする。あたりが明るくなるのは経済を再生するための大きな要素だ。
ひるがえって日本だ。この国は英雄を待望するという空気に乏しく、その結果おもしろみのない国になっている。しかし英雄というものにはずいぶんと危険が潜んでいるので英雄など不要だというのがわたしの考えだ。つまらない英雄不在の国で名もない庶民が英雄的製品を作り出し、それが世界にひろがっていく。そういうやりかたをして戦後を過ごしてきた。
英雄としての個人ではなく英雄的存在としての国家というのはどうだろうか。国家は個人よりもさらに汚く、英雄どころじゃないということかもしれないが、象徴的な意味で英雄的国家というのはありうると思う。たとえばかつてのヴェネツィアは私の目には英雄的国家として映る。
日本が英雄的国家として再生できるかどうか。それはわからないが、この国は自分がかりに英雄的国家となったとしてもそのことにずっと気がつかないに違いないと思わせるものがある。では英雄的国家としての日本とはなにか。ちょっとしたイメージを持っているが書き留めるのは別の機会にしておく。
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by hatano_naoki | 2009-01-17 08:12 | 日日
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