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イムジャ氷河湖のこと
d0059961_20414760.jpgきょう放送の『世界遺産』をみていたらエベレスト街道が写っていた。エベレスト街道とはルクラからエベレストのベースキャンプにいたるトレッキングルートのニックネーム。テレビ画面を見ながらあそこを歩いたのは35年も前だったな、と思う。
番組ではイムジャ氷河湖が紹介されていた。
エベレスト南面から流れ下っている大きな氷河はクンブ氷河と呼ばれているが、ローツェの南側を下ってクンブ氷河に合流しているのがイムジャ氷河である。そのイムジャ氷河のモレーンの末端ちかくに大きな氷河湖があって年々大きくなっており、モレーンの末端が決壊すると下流の村々に大きな被害をもたらすおそれがあるというような内容だった。
わたしはこのイムジャ氷河をさかのぼり、ローツェから南に伸びている枝尾根上の小ピークであるアイランドピーク(6168m)までいった。ルートをまちがえたのと装備が貧弱だったのでたぶん6000mあたりまでしか行けなかった。このとき現在のイムジャ氷河湖付近にあるパレシャヤギャブと呼ばれるところでキャンプしたのだが、そのように大きな氷河湖を見た記憶はない。この氷河湖は1960年代に生まれ、それからすこしづつ大きくなって現在の姿になったという。ということはわたしが行った頃はたぶんとてもちいさな湖だったのだ。
氷河湖が大きくなったのは気温の上昇のためだ。わたしはこの氷河湖によって地球温暖化と過ぎた年月のながさを実感することになった。
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by hatano_naoki | 2011-07-24 19:54 | 日日
どんなキーワードで来るのか(ブログの解析)
わたしののブログ(http://stowaway.exblog.jp)にくるひとがGoogleなどの検索の結果からやってくる場合、どんな語句で調べていたのかを見なおしてみた。
全体的な傾向としては検索キーワードのトップは「神は細部に宿る」で、ここ何年も変わっていない。これは「神は細部に宿る」について書いたこの記事に由来している。
2番目は、最近は「チェルノブイリ」。おもしろいのはこの傾向は3月11日にはじまったのではなくて、去年(2010年)の8月頃にあらわれてその後のつづいていたことだ。なにかの予兆だったのだろうか。
あとはいろいろで、ガジェットとか沖縄とかにかかわるキーワードが並んでいる。
それにしても「神は細部に宿る」にまつわるアクセスは根強い。現在では格言になった謎の語句に関する関心が存在することをうかがわせる。
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by hatano_naoki | 2011-07-24 06:01 | 日日
タヌキ
d0059961_518327.jpgここ数日、タヌキが現れるようになった。こどもが3匹で、親はまだ見かけない。東京の区部でもタヌキは増えているということだろうか。
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by hatano_naoki | 2011-07-18 05:18 | 日日
「だったり」症候群
ことばは時代時代に変化していくものだということはわかっているし、時代のはやりが気に入らないのは老齢化のあかしだというのもよくわかる。
しかしどうにも気に入らないのがいくつかある。

「になります」は論外として、「だったり」とか「であったり」が気になる。
これらは最近は非常によく使われる表現になったけれども、なぜ気になるかをかんがえてみて、そのあいまいさ加減が許せないということだと気がついた。使うひとは意図的に使うわけではなくとも、こういう朦朧とした表現によってなんとなくまろやかな言辞になるということだろう。使われ方をみていると、「であったり」というのはいくつかの例示の冒頭に置かれる表現であるはずなのに、そのあとにつづく複数の例示が省略されることも多い。むしろつづくことは稀だという気がする。
これはどういうことだろうか。たぶん、さきに書いたように意味はあまりないのだ。「になります」に特徴的にあらわれているように、いくらかながく言うことによって場の緊張が和らげられる。「カレーです」より「カレーになります」のほうが間がもつわけだ。「だったり」「であったり」にもこういう「長く言う効果」があるような気もするのだが。
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by hatano_naoki | 2011-07-11 18:58 | 日日
ちいさな一軒家がほしい
ちいさな一軒家がほしいと思っている。
住む空間はそこそこひろいほうが快適なのは当然だが、実際にはしごく小さくて狭い住宅はたくさんある。たとえば最近の建売住宅では10坪ちょっとの敷地にむりやり3階建の木造住宅を建てるようなやりかたが横行している。このように一般に狭小な住宅は狭い土地に家を建てざるをえないという制約の結果として狭小になるわけで、狭小な住宅をつくることが目的ではないはずだが、一方で制約の多いちいさな土地に建てる家を構想し設計するという作業は建築家の想像力をいたく刺激するらしく、狭小住宅というひとつのカテゴリーがあるようにさえ思える。そしてわたしにとっては限界的に狭小な住宅というのが自己目的化していて、小さな小さな家をつくって住んでみたいという願望にずっととりつかれている。狭小な住宅に対する偏愛だ。
ところでどれくらいの広さを狭小というのか。定義はあいまいだと思うけれども、見たとたんになんて小さいのかと感嘆するかどうかがひとつの基準だとは思う。それに加えて狭い空間で生きるセンス、哲学、生活のノウハウといった知的なもろもろが感じとれるかどうかも鍵だ。その意味では建売の狭小住宅は志がかんじられないので仲間に入れたくない。
トインビーではないが、土地の狭さという挑戦に対してどのように応戦するか。そこに設計者あるいは建築主の世界観とか人生観とかが現れてくる。こういうストーリーがみえないと、それはただのせま苦しい家ということになってしまうだろう。
センスのいい狭小な住宅をについては、ネットをすこしさまようだけで相当量の情報が手に入る。狭小住宅が専門と思える建築家さえみつかる。狭い売地をさがすのは大変かもしれないが不可能ではないだろう。つまり資金さえあれば実現可能な夢といっていい。もちろんここが一番の問題ではある。
これまで住んできた家を数えてみたら、いま住んでいるのは8つ目だった。木造の一軒家が4つ、木造アパートが2つ、コンクリート造の集合住宅が2つ。一番狭かったのは高校生のとき短期間住んだ木造アパートの3畳の部屋だった。
ところでわたしがイメージする狭小住宅は、たとえばこんなかんじだ。
土地は10坪以下、できれば8坪くらい。限界まで小さい家にしてみたいからだ。
8坪で家が建つかというとそうとうきびしいといわざるをえないが、実際に建てられている事例があるしやってみる価値はある。8坪で建ぺい率が6割ならば建坪は5坪弱。2階建ならのべ床面積は9坪を下回る。この中にトイレ、お風呂、台所、玄関、収納スペース、階段などを収めなければならないから、リビングと寝るスペースでせいぜい7、8畳だろうか。ワンルームマンション程度の広さの一軒家ということになる。
なぜこんなに狭い家に住みたいかということだが、まずその狭さが愉快だという感覚がある。狭い空間に住もうとすると家は装置に近づいていくはずだ。空間の活用からいってもヨットや宇宙船に似てくるにちがいない。一方でその家の住人が価値を認めている要素が極小化されずに相対的に大きな空間を占めることも考えられる。トイレでのんびりするのが大好きだというひとがいるが、こういうひとが住人になったならば家の大きさとは不釣り合いな大きめのトイレ空間がしつらえられるかもしれない。わたしならば風呂桶は入れない。するとシャワールームはとても狭くて済むはずだ。こんな具合に住人の生活のしかたを反映させることで、ただ単に住宅の設備を小さく狭くするというのではなく、取捨選択を行なうことになっていくはずだ。なにを残し、じゅうぶんなスペースを与えるか。なにを削ってスペースを節約するか。それらはすなわちそのひとのイメージする生活とはなにか、価値を付与している要素はなにかを明らかにすることになる。
住宅内で上下方向の移動の多い家(つまり現在の住まい)に長年住んでいると、決して住みやすいとは思えない。個人的には住宅は平屋が理想なのだ。ところが狭い土地に建てられる家は必然的に縦に伸びていき、塔のようなかたちになりやすい。狭小住宅なのに縦に伸びるのはいやだというのは無理があるわけだ。しかしこのへんは工夫次第だという気がする。勉強のために狭小住宅を見てまわるのもおもしろそうだ。
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by hatano_naoki | 2011-07-07 22:11 | 日日
最近の「モバイルチーム」
d0059961_1756363.jpg最近持ち歩いているガジェットの集合写真。
写真右上から左へ、RIM Blackberry bold 9000、Apple iPod touch (4g)、NEC Aterm3500R(モバイルルーター)、SONY MW600(bluetooth headset)。
写真左下はSANYO eneloop mobile booster、右下はThink outside Stowaway universal bluetooth keyboard。
これらに加えてmicro USBなど何種類かのケーブル類、USB出力のACアダプターなど。
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by hatano_naoki | 2011-07-06 17:56 | 日日
カフェ・クメール
昔からカフェをやってみたいと思っている。ただし具体的に計画するというのではなく、いわば妄想のたぐいだ。最近も自分の経営するカフェのことを妄想していて、いっそのことカンボジアをテーマにしたらどうかとひらめいた。ならば店名は『カフェ・クメール』がいいだろうか。
それは学生街にあるような雰囲気のこじんまりした店で、たとえば京大のちかくにある喫茶店のようなかんじ。店内は暗く、インテリアの基調はクールに整えたラテライトの赤茶。モノクロの良質なアンコールの写真がたくさんかかっている。メニューは古典的な喫茶店メニュー。全体にレトロなかんじがいい。
ただしインテリアのテーマにカンボジアを持ってくるだけで、カンボジアマニアがやっているというようなかんじにはしたくない。
イメージの背景には自分が気に入っている喫茶店の記憶がある。独特の雰囲気のある店、たとえば昔の新宿にあった『風月堂』とか、御茶ノ水の『穂高』とか。
喫茶店というのは不思議と独特な空間であって、その空間の雰囲気が好きだし、喫茶店にいる自分が好きだというのもある。
個人経営の喫茶店というのはずいぶん減ってきているようだ。大手チェーンが増えるなかで経営がむずかしいのだろう。自分が所有しているビルでやるとかなら別だろうが、どうかんがえても儲かりそうにない。そういう現実があるのはわかっているが、妄想のレベルでのカフェ経営はなかなかに楽しい。
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by hatano_naoki | 2011-06-30 05:52 | 日日
ブログ記事「チェルノブイリ!」その後
2009年の夏を境に、このブログに書くことがすくなくなっていた。つまり丸二年、書く意欲がうすらいでいたということだろうか。そんな荒廃したブログに来るひとなどいないだろうと思っていたのだが、ふと思い立ってここ数カ月間のアクセス状況を調べてみた。するとおどろいたことに3月に何万という数のアクセスが記録されている。3月12日に起きた爆発的なアクセスはそれから一週間ほどもつづき、その後はゆるやかに減少していた。
これらのアクセスのほとんど全部がGoogle検索からやってきたもので、検索のキーワードはチェルノブイリだった。
これらの検索のゴールはこの記事。わたしが2006年にこのブログに書いたみじかい記事を、世界中から読みにきたひとたちがいたのだ(実際、検索元のGoogleの国籍はすさまじく多かった)。
これはすなわちフクシマの残響といっていいだろう。

5年前にこの記事を書いたとき、わたしの頭の中には「世界のなかで行くべき場所」というイメージが育っていた。行きたい場所ではなくて、わたしたちが行かなければならない場所。いわば現代に生きる人間として旅立つべき巡礼の場所。そういう場所とはどこかと思いめぐらすとき、チェルノブイリはそのなかのひとつだった。しかしチェルノブイリは遠い。その後のわたしはチェルノブイリに旅立ってはいなかった。
そしていまやフクシマは世界のひとびとにとってチェルノブイリと等価の巡礼地となりつつあるのではないだろうか。

当時、こんな反応もあった
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by hatano_naoki | 2011-06-21 14:51 | 日日
大地震のあとで
ここのところ、すっきりしない、はっきりしない、わだかまったあいまいなかんじが抜けない。運命のモラトリアムにいるようなかんじ。圧迫された肉体の感覚、破綻の上に浮かんでいる借り物の一時的な安定という意識。そういう気分が基調低音になっていて、なにをしていてもちいさく鳴っている。
大地震から3ヶ月が経って東京の日常はすっかり日常らしくなったけれど、あきらかに以前とはちがう。それは外部的な要素ももちろんあるが、内部の意識に顕著だ。
根底には大津波の間接的な体験と、わたしの住む東京の北北東200キロメートルにある傷ついた原発群のことがないまぜになっている。
東京では原発の恐怖は抽象的だ。まあ普通に暮らし、過剰な恐怖心を持つ必要はないということだろう。しかしいまだにからだのどこかが身構えている。いつどの瞬間にも駆け出せるような身構え方。
わたしの妄想によれば、傷ついた原発の内部で燃える原子の火は抑え込まれていないだけでなく、悪魔的な威力を行使する瞬間を狙っている。つまりその瞬間がくる可能性がある。事態がいまよりも悪くなるということだ。チェルノブイリほどじゃないと思っていたのがひっくりかえされる。おそろしい原子の火で電気を作ろうなどというかんがえがあさはかだったのだと真剣にかんがえる。
これらの原発群が沈静化し、完全に姿を消すまでにはおそろしく手間のかかる面倒な作業の連続である10年もの時間が必要だとマスコミはいっている。原発は安くも安全でもなく、それどころかおそろしく手を焼かせる厄介者であることが事実によって証明された。今後10年は原発の軛(くびき)から逃げることはできない、覚悟しなければならないとわたしの中の誰かがつぶやいている。
地震が起きてからずっと、原発でなにが起きているのか、それがどれほど危険なのかがあいまいにされたままで時間ばかりが経ち、そのあいだに不誠実で稚拙な情報の開示がつづいた結果、こんどの原発事故の状況についてはほとんどだれも楽観的な予測をしなくなっているにちがいない。事態は発表よりも必ず深刻だった。
たとえばこれらの原発がいわゆるメルトダウンの状態にあることが公表されたのは事故の発生から2ヶ月半も経ってからだった。
そういう中でわたしがいくらか信頼できそうだと思っていたのは外からくる情報だった。それはたとえば欧米の研究機関の見たてであり、海外メディアの論調から見えてくる原発の状況である。放射性物質の拡散状況ははやい段階で海外の機関によってシュミレートされ、図として示されていた。おなじことが日本にできなかったはずはないが、それが公式発表として示されることはなかった。
こういう状況がつづくといわゆる専門家のいうこともあまり信用できなくなってくる。原子炉の設計と運用の根底にある思考が原子の火のおそろしさに比べて軽すぎたんじゃないのかといううたがいが消えないどころか大きくなっていく。
どうかんがえても原子力による発電というアイデアそのものが破綻した。そのことは本当はチェルノブイリのときに世界の共通認識になるべきだったけれど、少なくとも日本はウクライナから遠すぎ、チェルノブイリの災厄は日本の災厄とはかんがえられなかった。
しかしもう無理だろう。すくなくとも日本では原子力による発電をつづけていくことはできず、どういう道筋で撤退するかが唯一の関心事になっていく。一方で世界の現実はおおいに違っており、先進諸国が脱原発を目指したとしても、膨張するエネルギー消費に応えるために原発に舵を切る東南アジアの国々のような立場もあるわけで、結局世界の原発は増えていくにちがいない。いわば貧者のエネルギーとしての原子力発電。そうなると原発ビジネスは武器商人のイメージとだぶってくる。その結果、核爆弾のように原子力発電も拡散していくから、日本が脱原発でクリーンになったとしてもよその国の原発事故にいつまでも戦々恐々としていなければならない。
歴史的には福島原発はヒロシマのように身をもって原子力に内在する危険と災いの実相を示したというふうに記録されるのだろうが、それにもかかわらず原発のない世界もまた絵空事で終わりそうだと憂鬱なわたしは思う。

*

地震が起きたときは東京の都心のビルの5階にいたが、相当な振幅で、かつ長い時間にわたってゆれた。ビルが倒壊するかもしれないと思えるような揺れだったが幸運にも倒れることはなかった。30分後、電車は止まっていたので家に向かってあるきはじめた。携帯はまったくつながらず、メールだけが長い時間をかけてようやく届いていた。
2時間ほど歩いて自宅にもどると、家は見たところこわれずに立っていた。ただし台所の食器がかなり落ちて床がガラスの破片だらけになっていた。その夜から週末の2日間を家にこもって東北を襲った大津波の映像を見つづけることになった。テレビで津波とその被害の映像を無限ループのように見つづけるうち、一種の間接的なPTSDとでもいうべき精神状態が生まれそうだった。

初期の被災地のヘリからの空撮は少し経つと地上からの映像に変わり、生き残ったひとびとの証言が増えていった。報道内容のこういう変化は阪神淡路大震災のときにも経験したことで、個人的には阪神淡路大震災といろいろな局面で比較していた。
ところが阪神淡路大震災とはまったくちがう状況があらわれた。原発である。福島第一原発の状況がひんぱんに伝えられるようになり、その深刻さがわかってくるとつぎに思い出したのはチェルノブイリだった。以前、チェルノブイリについて調べたことがあって、その事故のひどさが深いところにこびりついていた。東京からの脱出というイメージが脳裏をいききした。
日々の報道も自分の意識も大津波と原発の危機でいっぱいになり、原発の生み出した危機の進行を自分なりに判断して行動する(あるいは行動しない)日々がつづいた。津波の被害の様相がしだいにはっきりしていく一方で原発でなにが起きているのかはよくわからないのだった。

あの大津波は将来は伝説となるにちがいないほどの天変地異の一種で、それもめったに出会わないくらいの大きな災禍だったが、東京にいたわたしは被災地と原発のサイトから伸びる長い影の下にいたにすぎない。地震直後には東京にも危機の予感が漂ったが、その次に破滅がきたわけでもない。しかしくる日もくる日もテレビで津波の映像を見つづけたわたしはそれらが間接的であることによって傷ついたような気がする。
一方で原発の災禍は直接的に東京に及ぶかもしれず、そうなれば東京はチェルノブイリのときのキエフになるかもしれなかったから緊張が張りつめていた。まちを歩いているとそこにはきのうの日常はなく、いつくるかわからない破滅を待ち受ける瞬間が連続してあらわれていた。
傷ついた原発はいわば緩慢な死の表象だ。いつ飛びかかってくるかわからない獰猛な生きものの群れに遠巻きにされていて、その状態で何日も何週間もすぎていくような気分。あいまいな危機が日常化するのをただ傍観していて、なんの積極的な行動もとれないというジレンマあるいは自棄。東京は目前の危機に接しているわけではないから危機も不安も抽象的であり、手のなかで時間をかけていじったりいろいろな方向から眺めたりすることができた。綱渡り的状況であってもそれがつづけば人間はしだいに慣れてくるもので、余震に慣れたように原発の危うさにもしだいに慣れていった。

この大津波と原発の危機がわたしにどのような影響を与えたかについては、状況が現在も進行しているのでいわば途中経過だが、なにか大きくて重くて本質的な問いを背負ってしまったようにかんじられる。そしてまた、大津波とその後の原発の危機的状況によって、これまで世の中にあっておおきな顔をしていたくだらないもののあれこれがそのくだらなさを露呈したし、自分の行動や思考もおなじように検査されたというふうにかんじる。まがいもののメッキがはがれ、要らないもののひとつひとつにこれは要らないというフラグが立つ。人間の生活のそうとうな部分は無意味で不要な要素から成り立っているが、それらがくっきりと色分けされる。無事に生きていることが一種の奇跡だったということがようやくわかってくる。人間というものは結局、これほどの惨禍を通過しないと学習しない生きものだということが再確認される。
直接にはおおきな被害がなかった東京だが、目に見えない不安がいまだにうすいベールのように都市全体をつつんでいるようにかんじられる。都市が心理的な外傷を受けた。もちろんそれはわたし個人の心象にすぎないのだろうし、多くのひとが共有しているかどうかはわからないけれども、すくなくともわたし個人の日常意識は3月11日以前とはちがっている。ではどう違うのかということをかんがえると、自省、内省、沈潜、自閉というような単語が浮かんでくる。大地震が起きて以来、心底おもしろかったりくつろげたり安心したりしたことがない。そして最近の心理状態でこれはやばいなとかんじるのは、さまざまなものごとに興味をかんじられなくなっているようなのだ。毎日は基本的に憂鬱であり、行き止まりであり、出口が見つからない。日本人の最近の生活行動の傾向は外出が減り、家ですごす時間が増えているということらしいが、これは思考の傾向にもあてはまるだろう。自分についていえば、消費が楽しくない。無駄と浪費が疎ましい。浪費やぜいたくは悪であるという意識もある。その背景には、社会そのものがサバイバーズギルトに苦しんでいるということがあるかもしれない。
思い返してみると、いまの社会の繁栄は所詮、砂上の楼閣にすぎないと思いながら何十年も生きてきた。なにも起きないことが前提の丸腰の社会を容認する意識が戦後の日本をおおっているという嫌悪感、そのことに対する不適合の感覚がずっとあった。こういう意識にとっては地震のあとの社会状況にもそこに生きる自分の自画像にも違和感はない。

ところで、これはごく個人的なことだが、ここ半年以上文章らしい文章を書いてこなかった。自分の中で文章を書く行為そのものが失われかかっていて、焦燥をかんじながら抜け出すことができなかった。書きたいと思っても手が動き出さなかった。もっともそれほど偉そうに言う資格はもともとわたしにはなくて、これまでもながい時間をかけて本当にわずかな表現をようやく搾り出してきたにすぎない。きわめて生産性が低かったわけで、いったいなにをしていたんだという文句のひとつも言ってやりたいところだ。それでもすこしまた書きたいという気分がしてきている。
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by hatano_naoki | 2011-06-11 08:04 | 日日
新宿西口高層ビル街区
昼すこし前に用事がすんだので新宿西口の高層ビル街区にある三井ビル地下1階のスタバに寄ってみた。
店は広くはない。照明を落としているので店内は暗く、そのために明かりの具合がなかなかいい。午前中の雨があがってそとは結構光がまわってきており、半地下のような広場に面した白いコンクリートの壁面が暗い店内に光を送り込んでいる。開口部の広い洞窟に似ていると思い、この空間がすこし気に入った。
こういう印象を受けるのは大地震に起因する節電のためだ。大地震の影。
震災後、公共的な空間で照明がすすみ」、東京のあちこちがうす暗い。地震は都会に暗がりを作り出したが、はじめは違和感をかんじたもののすぐに慣れた。いままでが明るすぎたのだ。
高層ビル街区の地下という立地からは当然だが客は勤め人が多いようであり、打ち合わせなのか大きな声で話し合っている白人のグループがいて、そのほかの日本人の客はみなおとなしく本を読んだりスマートフォンをのぞいたりしている対照がおもしろい。
この店が面している広場ではずっと昔、芸能山城組のケチャの公演を見たことがあった。たぶんビルができてからそれほど経っていない頃だ。それ以外にもこの空間はわたしにとって自分の人生の交差点みたいな使われ方をしたことがある。どれもこれも昔のことで、そのあいだに広場を囲む店も変わってしまい、高層ビル街区そのものもずいぶん歴史を刻んできて、街路樹が大きく育ち、その間に落ち着いた場所になっている。
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by hatano_naoki | 2011-06-04 11:59 | 日日