カテゴリ:日日( 217 )
一枚の写真
最近印象に残った一枚の写真のことを書きとめておきたい。
それが撮影されたのは2011年3月11日、場所は南三陸町の防災対策庁舎屋上。あの大地震の引き起こした津波がしだいに盛り上がって3階建のビルの屋上にいる撮影者とおなじ高さになり、ついには撮影者を押し流そうとする瞬間をとらえている。波頭は勢いよく屋上の手すりを乗り越え、いまや屋上の全体が波の下に隠れようとしている。
写真は足下ちかくからはるか遠景までをとらえているが、見渡すかぎり一面が水。このとき、建物のある地域の全体が3階建のビルよりも高い津波の下にあった。
撮影者はこういう状況に実際に出会い、そこにいて津波の来る方向にカメラのレンズを向け、やってくる津波をとらえるためにシャッターボタンを押しつづけていた。
写真をみながらことばを失い、すこしの時間だが息を詰めていたことに気がつく。何度もため息をつき、しかし写真をみつめることしかできない。胸の奥がかたい。

スマトラ沖地震のとき、津波の映像はいくらか見たけれども、個人的には津波の恐怖をかんじさせるほどの映像は見たおぼえがない。この災害では20万人以上が死んだが残された映像記録は少ないらしく、津波で集落が流されたあとの様子から津波そのもののありさまを理解するには想像力が不足していた。
それ以前には、秋田のどこかの海岸で撮られたものだったと思うけれども、津波が押し寄せる様子を見たことがある。海の一部が白い波をともなって持ち上がっていたような記憶があるがはっきりしない。それが津波だといわれても正直いってぴんとこなかった。
今度の地震では大津波のありさまが写真や動画で(そのうちの相当数は携帯のカメラで)記録された。巨大津波の記録映像がこれほど多量に一般のひとびとによって残されたのは歴史上例がないはずだ。
そしていまやわれわれは大きな津波とはどんな存在なのか、どのような大きさでどのように動き、それが引いて行ったあとにどのような風景が現れるのかをていねいに学習する何百年の一度の機会に否応なしに遭遇することになった。
それまで津波の姿はみたことがなかったといっていい。
津波とは「持ち上がった海」であって、それがきわめて長い波長を持つ波となってすごいはやさで進んでくる。陸地が近づいて水深が浅くなると速度が落ちる一方で波頭は急に高くなり、陸地に押しよせる。
そういう図式的な理解はしていたものの、奥尻島を襲った津波では谷筋を海抜30メートルほどのところまで駆け上がったといわれてもその具体的な映像を思い描くのはむずかしかったし、この津波が深夜だったこともあって映像記録を見たおぼえはない。つまり大津波とは具体的にはどういうものか、よくわかっていなかった。
大きな津波がくる可能性にどれほどの恐怖心と警戒心を配分すればいいのかについても真剣にかんがえていたわけではない。海岸ちかくに住んでいるわけではないわたしには大津波そのものが抽象的な存在だったわけだ。
ところがあの大震が起きて最初の1ヶ月は朝から晩まで津波の映像を見つづけることになった。それはテレビに映る映像にすぎず、指や皮膚で触れられる現実とはちがっていたけれども、それでも伝わってくる過剰な恐怖があった。

今度の地震で起きた津波の記録映像の多くは避難した高台ややや安全なビルの上から撮られたもので、いわば遠景として記録されている。ところがわたしがさきほど説明した写真は津波の中に孤立して島のようになったビルの屋上で、つぎの瞬間には撮影者が押し流されたほどの緊迫した状況下で撮られている。実際、屋上にいた30人のうち生存者は11人にすぎないという。町役場の職員だという撮影者はいったん流されたものの、近くにいた副町長につかまれて生きのびた。
こうして彼のデジタルカメラは水没はしたが手元に残り、データもかろうじて残った。それで撮影者とともにデータもこちらがわに残された。ほかにもぎりぎりの瞬間を記録したあとで失われたたくさんのカメラがあったにちがいないが、それらは撮影者の生命とともにあちらがわにいってしまった。そういう意味ではこの写真は境界をさまよっている。わたしがいま見ることのできるこの1枚の写真が写しとっているのは、もしかしたら生きている人間には見ることができなかったはずの光景だ。あるいはあちらがわにいったん行ってしまったあとで、神さまの気配りかなにかで引き返してきた人間の記憶そのものが写されている。

朝日新聞記事
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by hatano_naoki | 2011-06-04 09:09 | 日日
はじめての「大回り」
大都市の近郊区間の乗車のしかたの特例として「大回り」というのがあるのを最近になって知った。近郊区間であれば同じ経路を通らない場合、乗車駅と下車駅の最短区間の運賃で計算されるというルールのことだ。
で、さっそくやってみた。高田馬場から乗り、新宿から中央線で八王子まで行き、橋本経由で相模線で茅ヶ崎まで。東海道線で大船に出て、京浜東北線で東京まで。山手線に乗り換えて目白まで。かかった時間は6時間ほどだった。相模線では丹沢のながめがよかったので途中の駅で下りてホームから山を見ていた。これも旅のひとつのやりかたにはちがいない。
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by hatano_naoki | 2011-01-23 15:07 | 日日
伊26潜の最期
第二次世界大戦末期のレイテ沖海戦で、叔父のひとりが戦死している。彼は父親の弟であり、海軍兵学校を卒業した潜水艦乗りだった。
沖縄のことをいろいろしらべているうちに沖縄への水上特攻で悲劇的な最期を遂げた戦艦大和のことを改めてかんがえるようになり、当時の日本軍首脳の思考をトレースしているうちに、そういえばその叔父はフィリピン沖で戦死したが遺骨は帰ってこなかったと聞いたのを思い出した。
そこでいまさらながらネットをさまよってみると、叔父の最期がある程度わかってきた。
名前は波田野正七といい、海軍兵学校第71期を昭和17年11月14日に卒業している。同期は581名だった。「山城」「榛名」に乗務したあと10期潜水学生となり、イ号26潜(正式には伊号一五型第二六潜水艦というらしい)の航海長となる。艦長は西村正一少佐(60期)。フィリピン沖海戦で撃沈され戦死。23歳、戦死後大尉。

イ号26潜は1944年10月3日に呉を出航してフィリピン東方海上に向かった。その後の行動は不明だが、米海軍史料によると北緯3度44分、東経130度42分で米護衛空母アンジィオ所属の哨戒機と護衛駆逐艦ローレンス・C・テーラの爆雷およびヘッジホッグ攻撃により撃沈されたと推定されるという。
沈没の時期および経緯については複数の情報があっていまのところはっきりつかめていない。

イ26は水中排水量約3,600トン、全長108.7m、全幅9.30m、安全潜航深度100m、航続距離(水上)14,000海里。魚雷17本を積み、零式小型水上偵察機1機を搭載していた。乗員は100名前後でうち将校は9名。ずいぶん大きな船だ。
艦長はおそらく34歳くらい、航海長が23歳というのはいかにも若い。

彼の母親(つまりわたしの父方の祖母)はいなかのひとで文字が読めなかったにもかかわらず、新潟の山奥から江田島まで息子に会いに行ったという話を聞いたことがある。
戦争はもうはるか昔のできごとだが、沖縄での戦いのことをあれこれかんがえているうちにふと思い出したので、いくらか鎮魂の意味もふくめてメモしておいた。
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by hatano_naoki | 2010-11-07 06:34 | 日日
ハトヤマの読み方
普天間問題で首相が沖縄を訪問したことについての一連の報道をみていると、首相のやりかたのあまりのまずさに呆れるしかないけれども、それは首相本人の資質の問題である以上に、日本という国家の安全保障が危機的状況だということを示している。
ところで今度の普天間問題はある意味でなかなかすばらしい展開だと思っている。それはつまり沖縄が置かれている状況と沖縄の「民意」が連日報道された結果、まずは沖縄の基地問題に光が当てられてきたし、現在の日本が誰を仮想敵として国家の防衛を考えているのか、国家の安全保障はどうあるべきなのかというようなもろもろの本質的なことについて、根底からかんがえ直さざるをえないほどの混乱を露呈しているからだ。自民党政権下ではこういうことは露呈しなかったわけで、それをぶざまな(つまり生々しい)かたちで表に出したという功績で首相は後世に評価されるだろう。首相は普天間問題が困難であることを示したが、仮に彼がやめても他の誰も(野党もふくめて誰も)すばらしい解決を提示することができないこともあきらかになってきた。55年体制下の日本が自国の安全保障をあいまいにしてきたからこうなったわけで、「普天間」は普天間だけを解決しようとしてもできない類の問題だということがはっきりしてきたのは収穫だといえる。われわれは誰とどのように組み、誰から領土を防衛するべきなのかという根本的なことがすべてあいまいになっている。現代においては敵と味方は二元論では説明できないので、そこに政治と外交の熟練が要求されてくるわけだ。小国日本が生存するためには政治と外交のスキルが不可欠だという認識を持ったほうがいいんじゃないかというのが個人的な感想であるのだが。
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by hatano_naoki | 2010-05-05 18:37 | 日日
あれこれ
ことしのあれこれ。
ネットとデジタルデバイス関係ではGoogleに終始した。Google Chromeとそのportable版がデフォルトのブラウザになった。IEってあったっけ。WindowsMobileスマートフォンS11HTはひきつづきAndroidケイタイとして稼動中。来年はAndroidケイタイのどれかに変更、決定。ストレージがSSDに移行した。Windows上のアプリケーションは基本的にポータブルアプリしか使わなくなった。
カンボジアの関係では、『カンボジアジャーナル』をつくりはじめたのが最大のトピックだろうか。この10年間、自分がカンボジアとのかかわりの中でどういうことをして誰と会ってきたかを確かめるいい機会になった。いずれにしても、雑誌(もどき)を作るのは楽しい。
なかなか書き終えることができないでいるけれども、沖縄をテーマとする原稿は相変わらず行きつ戻りつしている。しかしなんとかなりそうな気配。あと数ヶ月というふうに楽観しておく。

来年へのあれこれ。
ちいさくて軽くてバッテリーで長時間駆動できるPCがほしい。キーボードの良質なやつ。現在メインで使っているEeePC901-Xはよくできたマシンだが、唯一の不満はキーボードだ。それにAndroidケイタイ。物理キーボードがあるもの。e-mobileから出れば最高だが。
『カンボジアジャーナル』はつづけようと思う。うまくいけば第3号~第6号まで発行できるはずだ。
沖縄の本を書き終えて(できれば)出版までもっていき、あわせて次の原稿にとりかかる。次を考える状態ではないけれども、書くことをやめることはない。
そして。自分を取り囲む世界とのかかわりかたを革命的に変えたいという不変の願望は来年もつづく。
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by hatano_naoki | 2009-12-31 19:46 | 日日
本が売れない
asahi.comの記事によると、今年の書籍・雑誌の推定販売金額がこの20年間ではじめて2兆円を割り込むことが確実になった。96年の2兆6563億円がピークで、その後は減る一方だった。
書籍はミリオンセラーが2作のみ。「1Q84」の224万部は抜きん出ていたわけだ。興味深いのは売れないのに新刊の刊行点数だけは伸びていること。89年の約3万8千点に比べて、昨年は約7万6千点。返本率は4割をこえ、しだいに高くなっている。小部数でどんどん出し、返品の山になるという悪循環がみえる。雑誌も10月末時点の前年同期比で過去最大の落ち込み幅だという。
本が売れない理由は複合的なもので回復は簡単ではなく、むしろ無理というべきだろう。小部数・多点数刊行・大量返本という構造は衰退の構造にほかならないから、見通しは暗い。
紙に印刷された本というものは長い衰亡の途上にあるのかもしれない。しかし電子的な文字とおぼれるくらいつきあいながらも紙に書かれた本に対する自分の愛着はいまだに薄れていないとわかる。
本が売れない今、本を書こうとする行為はドンキホーテ的であり、徒労に近いようにも思えるけれども、それでも書くことにこだわっているのはなぜなのだろうか。
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by hatano_naoki | 2009-12-13 09:11 | 日日
事務次官廃止
民主党が公務員制度改革の中で次年度に事務次官の廃止を検討しているという。
来年の参議院選挙までに民主党がどれくらいの政治的成果をあげられるかはまだわからないけれども、かりに事務次官ポストを廃止できればそれは明治以来連綿と続いて国家を牛耳ってきた巨大なヘビの頭をちょんぎることになり、官僚の支配に一定の打撃を与える可能性がある。これとあわせて官庁の外郭団体への圧力を加え続ければ、経済が浮揚しないとしても民主党は次の選挙で勝つことができるだろう。短期的に経済が立ちなおる見通しはだれが政権をとってもないわけで、こういう状況は無駄を省き悪者探しをするのに向いている。絞れば絞るほど無駄が明らかになるはずだ。事業仕分けにしても三年ほどもかけて徹底的にやっていい。仕分けする側のスキルもそのあいだに高まるだろう。
民主党が自民党のようなだめさでだめになるのは将来的に避けられないとしても、元気のいいあいだにいろいろいいことをやってくれればそれでいいわけで、だめだと思えば別の政党に政権を移せばいい。それが二大政党制の長所のはずだ。そういう意味でいまのところあれこれ問題を起こしながらも総論的にみて民主党はよくやっており、一方で自民党および五十五年体制そのものがいかに制度疲労におちいっていたかが明らかになったことで、これからそうとう長期にわたって自民党は政権に復帰できないだろうという感想を大衆がいだいているという気がしている。
しかしそれにしても経済が予想をこえて悪化すればなにがおきるかわからない。アメリカの戦争にしてもどれひとつ解決しない。歴史の踊り場で先のみえない毎日がつづく。
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by hatano_naoki | 2009-12-05 07:20 | 日日
Twitter
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というわけで、Twitterに接近。アカウントは、
hatanonaoki
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by hatano_naoki | 2009-10-22 20:48 | 日日
55年体制
わたしがどのような時代に生きてきたかといえば、ひとことでいって世界の中では冷戦、その崩壊、その後の混沌であり、日本においては55年体制だった。その55年体制の一般的な定義は別にして、個人的には今こそが55年体制の崩壊の瞬間なのだという気がしている。
55年体制は実につまらない社会を生み出した。こどもの頃から感じていたつまらなさの正体は、つまり55年体制そのものだったのだ。55年体制下の社会とは、結局のところなにも起こらない社会を意味していた。この社会と私は絶対的に相容れないと、心の奥底では思っていた。
では、いい社会だったのかどうかといえば、驚異的な経済成長は55年体制下で進展したわけで、そこは評価しなければならないだろうし、経済以外の面でも決して悪い時代ではなかった。わたしが言いたいのは55年体制下における私個人の心象風景のことであって、それがつまらない風景であり、わたしが受け入れることのできない、あるいは受け入れてもらえない時空間だったということだ。実に長いあいだ、わたしはつまらない時代を生きてきたことになる。
・・・55年体制のつまらなさというものの細部について、ちょっとまとめて書きとめてみたいという気分であるという報告だが、とりあえずここまで。
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by hatano_naoki | 2009-10-20 00:55 | 日日
原稿、よみがえる
数奇な(?)運命をたどっている原稿がある。
もともとは約30年前に書かれた。韓国に行ったときの体験をメモしたものだ。
その体験は私には切実だったので、ぜひとも記録しておく必要があった。
その後、たぶん15年くらい前にメモをもとに書き加えてノンフクション的な体裁の文章を書いた。どこかの文学賞に応募するつもりだったらしい。
データはなくなってしまったが、たまたまプリンターで印刷したものがあって、苦労して入力しなおした。その後、データをまた見失ってしまい、印刷したものも見つからなくなった。
それから長い時間が経って、ついこのあいだ改めて家捜しをした結果、プリンタ出力を幸運にも発見することができた。それはドットマトリックスプリンタで打ち出したものだったが、今回はスキャンした上でOCRにかけ、それほどの手間をかけずにテキストファイルに戻すことができた。しっかりバックアップをとったからもうなくなることはないだろう。
ここまで30年かかっている。
なぜそこまでしたかといえば、文章のできはともかく、体験としては忘れられないものだからだ。
A4で25枚、原稿用紙換算で60枚程度でしかないが、ちょっとほっとした気分だ。
内容を読み返してみるとまず文体が古くさく、このままでは使えないという感じ。これだけの時間、ほったらかしになっていた原稿を生き返らせることが可能だとすれば、すぎていった時間を書くための梃子(てこ)にするということで、ちょっと興味が出てきたところだ。
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by hatano_naoki | 2009-10-12 07:20 | 日日