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フェーズ5
ついにフェーズ5。
パンデミック寸前の段階が宣言された。
国立感染症研究所感染症情報センターの発表では、4月29日正午現在で確定感染者数112。うち64がアメリカで、7カ国に及んでいる。
以下はこのサイトにあるWHOの発表(4月28日)。

 インフルエンザウイルスに感染するリスクに関しては、旅行者は可能な限り人で混雑した閉鎖空間や急性呼吸器感染症に罹患している人との濃厚な接触を避けるよう勧告される。体調の悪い人やその周辺環境への直接接触の後に行う手洗いは、病気のリスクを低下させるかもしれない。体調の悪い人は、咳エチケット(距離を保つ、咳やくしゃみが出る時にティッシュペーパーや布を口や鼻にあてる、手を洗う)を実行することが勧められる。

ブタインフルエンザに対する防御に関連する特定の方法に関してであるが、抗ウイルス薬の使用に関する勧告を作成するには現在のところ情報が不十分である。ブタインフルエンザウイルス感染の治療における抗ウイルス薬の使用に際して、医師は臨床的および疫学的評価と、患者の治療の害と益に基づいて、判断を下さなければならない。


国家間の移動が自由・大量・高速で可能な現在、拡大をくいとめるのが大変なことだということはシロウトでも理解できる。メキシコでの感染者拡大が発表されているよりもずっと多いのではないかという指摘があるが、そうであるならば特にアメリカ国内への違法入国に起因する感染者の浸透はより深刻化するだろう。アメリカにおける大量の感染は経済に影響を与え、経済危機を上回る地球規模の衝撃を与えることになる。
今回の豚インフルエンザは弱毒という報道もあるが、ウィルスが毒性の強い方向に(急速に)変化していく可能性が捨てきれない以上、今回のフェーズ5宣言は現時点で世界規模の感染対策訓練としての側面があると思うし、それはわれわれが支払わなければならないコストだ。
事態は急速に進展する。遠からず見えない敵に対する戒厳令的状況が現出するかもしれず、それはわれわれが経験したことのない都市の風景を見せてくれるだろう。今なにが起きているのかがあと数日でわかる。
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by hatano_naoki | 2009-04-30 05:47 | 日日
フェーズ4
メキシコを発生源に豚インフルエンザが急拡大。WHOはさきほど(現地時間27日夜)フェーズ4を宣言した。
恐れていたもの(=パンデミック)が始まったのだろうか。
最悪のシナリオが現実味を帯びつつある。
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by hatano_naoki | 2009-04-28 05:11 | 日日
ナクサライト
昔インドに行ったとき、たぶんベナレスの安宿でナクサライトという単語を耳にした。誰かがインドには極左の過激派がいてナクサライトと呼ばれていると教えてくれたのだ。もしかすると教えてくれた人物がナクサライトの構成メンバか支持者であったのかもしれない。当時の私にとってはインドと過激派武装組織の組み合わせが不思議であり、ナクサライトという言葉の響きがなぜか強く印象に残った。
今日インドでは総選挙の第1回投票がはじまったが、非合法政党であるインド共産党毛沢東主義派(すなわちナクサライト)と思われる勢力による投票所への襲撃や治安部隊への襲撃が起こり、死者が出ているという。ニュースによればナクサライト=毛派の活動は60年代後半に始まったという。私がナクサライトという単語をインドで聞いたのは1974年だから彼らの活動がはじまってからそれほど経っていない時期だったことになる。
それから何十年もたった。ナクサライトは闘争を続け、政府機関を襲い、テロを繰り返してきた。世界は変転し、共産主義の幻想は破綻してしまったが、どこかでいまだに共産主義思想の亡霊が動態保存されている。なんという時代錯誤かと思う一方で、その病の根が深いことを思い知らされる。
ナクサライトについて詳しく知っているわけではないので概念的な理解にすぎないが、実際にはその思想的側面は時代に沿って変容しているかもしれず、その果てにたとえばアルカイーダと連携するようなことが起こるかもしれない。原理主義的な異議申し立ての習合。
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by hatano_naoki | 2009-04-16 18:37 | 日日
ネットを書く・その後
ネットの人間模様をあまり重くない文体であれこれ書こうとしているが、どうもおさまりが悪いというか、立ち位置があいまいというか、書きたい・書かなければという気持ちと結果とが乖離しているのが悲しい。人前には出せんなあという感じ。
ネットでの見聞やその感想を気楽に書けばそれでいいのかもしれないが、それでは15年前に書いた雑文以下ではないか。進歩がないなあとちょっと呻吟。
しかしなにしろネットについて書きたいという気持ちはあるので、もう少し迷走してみようかというところだ。
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by hatano_naoki | 2009-02-15 20:18 | 日日
mixiニュースから
mixiニュースでおもしろいトピックを2つ見つけた。

ひとつめはシンガポールの華字紙「聯合早報」の記事の抄訳らしいが、「現代中国語の社会や科学、文化の分野で日本語を由来とする言葉が7割を占める」という記事。
日本で生まれた単語、たとえば人気、写真、新人類、職場、達人、健康、衛生、文化、時間、労働、生産などが中国で日常的に使われているという。
言葉が近隣の国を行き来する(輸入、逆輸入)現象は一般的だと思うけれども、現代中国で日本生まれの単語が使われているとは思いもよらなかった。ただしこの記事の信憑性については保留。

もひとつはケスラーシンドローム。
この間、イリジウム計画で打ち上げられたアメリカの通信衛星とロシアの衛星が宇宙空間で衝突したが、こうした事故がさらに増加し、地政学的問題を招く可能性があると指摘されているという(ソースはロイター)。
この衝突で少なくとも600個の破片が散らばったという。興味深いのは、こうして生まれた破片が次の衝突を起こし、加速度的に衝突と衛星の破壊がふえていくと予測されていること。これをケスラーシンドロームと呼ぶ。詳しい解説がWikipediaにあった。
破滅のモデルのひとつとして興味深い。
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by hatano_naoki | 2009-02-15 18:08 | 日日
憂鬱な東アジア
昔空想していたのは、対馬海峡にトンネルを掘り、東京を出発した列車がこのトンネルを通って朝鮮半島を縦断し、それから大陸を西にひた走ってパリまで、あるいはロンドンまで行くことだった。
そのとき日本は英仏海峡トンネル完成後の英国のように島嶼国家ではなくなり、大陸の一部となっていく。
こういう夢想は、しかし少なくともここ何十年は(あるいはもっとずっと長い長いあいだ)実現できないように見える。隣人たちとは仲良くしなければならないし、仲良くなれば周囲は安定し、大きな経済的利益が生まれるはずだが、現実はそうはなっていない。朝鮮半島はいまだに不安定であり、北朝鮮は過去もこれからもずっと日本ののど元に刺さった小さいが鋭い棘だ。核武装を済ませた空想的独裁国家が崩壊するとき東アジアに何が起きるかは誰にもわからない。中国は日に日に巨大化しつつあり、いずれその経済力と軍事力によって東アジアにおけるアメリカの覇権を奪うかもしれず、そのとき日本は中国の傘の下で生きる選択をせざるをえなくなるわけだ。アメリカが永遠に日本を庇護する善良な隣人だという思考をとても持続できない。
・・・というようなことをときどき考えるが、実際にはわたしもまたそういう状況を支える信仰と哲学を欠いた芯のない標準的日本人であり、無防備な国家の作った繭の中でまどろんでいる。突破するにはどうしたらいいのかがわからない。
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by hatano_naoki | 2009-02-15 17:17 | 日日
どう生きる?(4)
世界的な経済状況の悪化が進み、先が見えない。戦後最大の不況などといわれるがこれからどうなるのか。根拠もなにもない個人的イメージにすぎないが、いちおうメモ。
今後少なくとも10年、あるいはそれ以上、世界全体にとって苦境が続き、これまでわれわれがかんがえてきたような景気なるものは回復せず、新しい枠組みが発見できないならば「不況」は常態化し、恐慌めいた状況が世界を圧迫する。そこまで悪い状況に運良くならなかったとしても見通しの悪い霧の中のような状況が長期にわたって続く。もっとも考えられるのは恐慌寸前の低空飛行、破滅の手前の状態での綱渡り的緊張が持続することだ。
・・・というようなイメージがわくが、繰り返すが根拠はない。しかしどうも明るい展望を描けないのは悲しいことだ。ことによると生きている間ずっと不景気あるいはそれよりも悪い状況とつきあわなければならないというわけだ。そういう世界の中でどのように生きていけばいいのか、国家が新しい生き方を探さなければならないように個人もまたひとりひとりが新しい自分の生き方を創造しなければならないように感じる。

ずっと昔、20年ほど前のインターネット前夜にこう書いたことがある。

 時代というものは、時々ハードルを用意してわれわれに挑戦してくる。そのハードルを越えられる人とそうでない人との間にある決定的な差異が生じて、それが生活レベルの差となり、社会的な上昇と下降のきっかけになる。歴史の中の勝者と敗者が生まれる局面に他ならない。ただし、ひと昔前のBASIC 学習ブーム(?)の例のように、真にハードルであるのかどうかは多少時間が経ってみないとわからない。結局は自分で判断して、時代に賭けることになる。ここでは、これからの「時代のハードル」として,単にパソコンを使えるかどうか、キーボードが打てるかどうかだけではなく、パソコン通信やインターネットによるオンラインコミュニケーションのスキルをあげることにしたい。
 ネット上にはオンライン感覚なるものが存在する。それは他人と深くつながっているという感覚だ。どのようにつながっているかといえば、大勢の人とあらゆる方向につながっている。その誰とでもコミュニケーションがすばやくでき、大量の情報を難なく送ったり受け取ったりできる。豊かで自由な感覚だ。はじめはオンラインでコミュニケーションしているときにだけ感じられるオンライン感覚が、やがて人生の全体を覆い始め、ネットワーカーという属性を持つに至る。
 ネットをやっている人だからといって、必ずしもこのオンライン感覚を知っているとは限らない。私が思うには、パソコン通信に接続している画面をはじめて見た時にそこに人間を見る人と、単なるコンピュータ画面を見る人のふたつの種類の人間がいる。前者はたぶんオンライン感覚を理解する素質がある。オンライン感覚とネットワーキングの意識はもしかするとかなり近いものであって、この両者を理解するどうかが、これからの時代を生き抜くキーワードである。
 ではオンライン感覚とはなんだろうか。それはおそらく楽観的な想像力のことだ。自分の向かっている端末の向こうに人がいて世界がある。人と人とはお互いに理解ができ、コミュニケーションは何ものかを生み出す。そのような可能性を持った人たちがいまの瞬間、自分と同じようにして世界のどこかの通信端末の前にいる。距離に(さらには時間に)隔てられながらも、自分と同じように肯定的な世界観を持った人たちとのコミュニケーションチャンスが自分の前に開けている。それは極めて生産的で創造的な感覚である。
 一方で、オンライン感覚なるものがぜんぜん分からないという不安を感じる人がいま現在も存在し、これからも続々と登場するはずだ。急拡大するオンラインコミュニティの内外で、オンライン感覚の欠如の不安もまた増大していくのではないか。それはいるの社会にあてはめればクルマの免許を持っていないというような種類の不安だ。
 オンライン感覚はまさに感覚のレベルの問題だが、ネットワーキングへの理解の欠如はさらに深刻かもしれない。社会がネットワーク型へ移行していくのはほぼ確実な時代の流れであって、通信ネットワークの整備とその上でのトラフィックの急増が拍車をかけている。ネットワーキングが理屈として受け入れられたというよりも、通信ネットワークというインフラがわれわれにとっての学校として機能し、その上でネットワーキングが実践的に理解されつつあるというのがパソコン通信のもうひとつの顔だ。
 パソコン通信やインターネットをビジネスに活用しよう、その上でもうけようと思っても、ネットワーキングとは何か、そこでコミュニケーションする人たちのオンライン感覚とはどんなものかについて理解していないならば、成功はおぼつかない。このへんにネットワーク上でのビジネスの秘密があるように思う。

・・・インターネットが普及しきった今、20年前に書いたような情報技術のハードルはもはや風化してしまった。
次のハードルはおそらく、世界の直面する困難にどのように対し、どう生きていくかという問いかけだ。「時代のハードル」がまたも現れた。
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by hatano_naoki | 2009-02-11 09:53 | 日日
秋葉原徘徊
休日のアキバを歩くのは最近のちょっとしたマイブームであり、ひとがいなければまったく殺風景な路地から路地へと歩き回ってあちこちの店をのぞいて歩くのはなかなかの娯楽だと感じている。にぎやかな「あきばお~」には必ず立ち寄ってその典型的な圧縮陳列のお祭り的雰囲気を楽しむがここではほとんど買うことはない。見て歩くのは主に小さなもの、たとえばUSBメモリ、SD、microSD、USBケーブル、さまざまな変換アダプタなど。たとえばSD2GBはすでに店頭で500円を切り(通販では100円とかいうところもある)、もはやタダといってもいい状況だ。アキバにはありとあらゆる電子小物が集まっているし、ゲキ安やゲキレアものもあり、店から店へ渡り歩くとあっという間に時間が過ぎる。買うものを決めずに行くとあれこれ買い込んでしまって収拾がつかなくなるので用心しなければならない。そういえばGR Digitalもアキバのずっと外れの小さな店で買った。
最近は町の雰囲気が楽しい。休日は人出がものすごく、もはや電気街というよりもテーマパークと呼ぶべきかもしれない。殺風景なはずの町並みがこれほどまでに輝くのに不思議な気がしてくるが、その大きな要素は人間にちがいない。来ているひとびとの数だけでなく、彼らから湧きあがる好奇心と購買意欲がただの群集とはすこし違った雰囲気をかもしだしている。おそらく世界的にみても特異な雰囲気であるに違いない。ずっと昔、香港の秋葉原のようなところにいったことがあるが、そこはいわば違法コピーソフトの巣窟のような雰囲気だった。手入れがあれば壊滅し、しばらくすると復活する。アキバにもそれっぽい要素はあるし、たとえばマジコンが店頭で売られていたりするわけだが、全体としていかがわしさはひとかけらに過ぎず、むしろ祭の縁日とでもいったような雰囲気がひろがっている。
ある種の外国人にとっては聖地のような場所であるらしく、アニメのコスプレ(たとえばドラゴンボール)をしている外人が楽しげに闊歩していたり、家族連れが気後れしたようにものめずらしげに歩いているのを見ると、ここは強いおどろきと魅力のある現代日本の代表的な観光地なんだなと改めて思うのだ。アキバの外国人といえば、記憶の中の古い秋葉原ではソ連の国営航空会社のパイロットが電子部品を買い込んでいる姿を見かけたものだ。ここで買った部品が鉄のカーテンの裏側でICBMに組み込まれるんだな、という感じ。
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by hatano_naoki | 2009-01-19 06:21 | 日日
書店徘徊
大きめの書店に入って特に何を探すでもなく歩き回る。
そのとき、最近、書店にいると生まれてくるある感情がまたも芽吹くのに気づく。書きたい、書かなければいられないという感情と、自分の指が書き出さず、書き始めてもすぐだめになってしまうという事実のあいだに生まれる石のような葛藤がある。書店は本の森のような場所だが、そのような森を歩きながら感情は落ち着きを失い、動揺しはじめる。そこには書かれた本があり、できあがった書籍という物体が存在感をあらわにしている。書籍という物質がわたしに圧力を加え、アジり、扇動し、ささやきかけ、皮肉り、打倒する。
正確にいえば書いてはいる。この二年間、いったい何回、ひとかたまりの長い文章の最初の一行になるはずのことばの連なりを書き始めたかわからないが、それらはいずれも途中で息絶えてしまった。書いているうちに逡巡し、手が止まり、終わってしまう。叱咤し、怒鳴り、懐柔し、休憩をとり、気を取り直して息を整えるが、結果は同じだ。そして無数の断章の小さな死骸が視野いっぱいに広がる荒れ野のような場所ができあがる。わたしは書くにあたってひとりきりである。だから同じ間違いを数知れず繰り返してそれでも気がつかず、明日もまた同じ袋小路に入って行き詰るのかもしれない。いや、そうに違いない。そんなこんなで時間がすぎていき、すぐに行き倒れてしまう出発が繰り返される。
本が売れず、一方でくだらない本でも宣伝しだいでよく売れ、そういう本が山積みになった本の森を歩き続けて、オレにまともなものが書けるのはいつなのかな、もたもたしていると死んじゃうよと半ば自棄になりながら考え、それでも妙に愉快な気分になってきてもいるのに気づく。まちがいなく本というのはいいもんだ、紙の手触りとインクのにおい、装丁のかもし出す小宇宙。結果はもういいだろう、書こうという意思を確認し、書く姿勢をとり続ければ、あるとき言葉の神様が降りてくるかもしれないじゃないか。降りてこないなら、それはそういうことで、書くという行為に関して神に愛でられていなかったんだね、と思うことにしよう。
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by hatano_naoki | 2009-01-17 21:19 | 日日
英雄についてのあれこれ
先のアーティクルで英雄ということばを使ったが、では英雄とはなにかということを整理しておきたくなった。
広辞苑には「文武の才にすぐれた人物。実力が優越し、非凡な事業をなしとげる人」とある。Wikipediaでは「ヒーローのこと」で、ヒーローとは「神話や物語などで主人公を務める人物」で「ヒーローの多くは、普通の人を超える力や知識、技術を持ち、それらを用いて一般社会にとって有益とされる行為、いわゆる英雄的行為を行う」そうだ。
個人的なイメージとしての英雄というものを考えてみると、運命的で悲劇的、非凡な才能、特異な経歴、一般人からはとおく隔たった存在、個人の力を超えたなにものかに衝き動かされる、国家や共同体の運命に深くかかわる、といった語句が浮かんでくる。危機にさいして突然現れ、身を挺して危機に立ち向かい、その危機を遠ざける。その結果自分が死んでしまうこともある。時代と深くかかわり、時代を象徴する存在でもあるというイメージ。
平和な時代、平和な国におけるスポーツ選手、歌手、俳優というようなひとびとは凡庸な「英雄」だ。この類の「英雄」はほぼ経済的成功とセットになっている。
英雄は後世に崇敬を集めて神となることもある。人から神への遷移は、しかしなにも英雄だけに限ったことではなく、いわゆる祖霊崇拝はあまねく祖先を神として崇めるわけだから、英雄の神への「進化」はごく自然なことに思える。ただ、英雄は個人の行いが長く民族の記憶(あるいは伝説)となって保存されるところがちがい、個人の像がはっきりしているという気がする。
いずれにせよ、英雄は単にある能力に優れているだけではだめで、民族の琴線に触れるなにものかを資質として備えている必要があると思う。
ところで個人的には歴史にいくらでも登場するような巨人である英雄ではなくて、無名の英雄とでも呼ぶべきひとびとに興味がある。それはたとえば迫ってくる電車をものともせずに身を挺して線路に落ちたひとを救い、自分は死んでいく一庶民のような存在を指す。小さな英雄がそこらじゅうにいると実感するとき、この社会はまだ捨てたものじゃないと思い、生きる喜びのようなものを感じるだろう。
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by hatano_naoki | 2009-01-17 18:13 | 日日