カテゴリ:目撃・現代史( 6 )
PA001便のこと(1974)
書店をさまよっていたら『AIRLINE』という月刊誌の特集が目に入った。
『栄光の001便物語』というタイトルがついている。それで思い出したのは、私も001便に思い出があるということだ。
私が乗ったのはパンナムのPA001便で、羽田からデリーまでだった。1974年秋のことである。夕刻に飛び立って、途中、香港とバンコクに降りた。
機中の様子はよくおぼえている。私の席は機体の後寄りで機首に向かって左の窓際だった。乗客はごくわずかでがら空きの状態だった。機体が滑走路を離れるとき、反対側の窓際にいた若い白人の男女がキスをするのが見えた。私から近い席にはアジア系の若い男が緊張した様子で座っていた。白人の体の大きなスチュワーデス(当時はスチュワーデスだった)が彼に「お前はどこの国の人間でどこに行くのか」というようなことを横柄な態度で聞いていた。
その2年前に韓国に行ったのが私のはじめての海外旅行だったが、パンナムのPA001便での出発は海外ひとり旅のはじまりであり、またはじめての国際線で、はじめてのジェット機でもあった。私の機体はジャンボだったが、ジャンボはすでに1970年から就航しており、すでにめずらしいものではなかったはずだ。
1974年という年は海外旅行の自由化から10年目であり、海外に旅行した日本人はおよそ233万5千人。ちなみに自由化初年度の1964年には12万7千人、私がはじめて海外に出た1972年には139万2千人。この年、海外旅行者がはじめて100万人を越えた。2005年には1740万3千人に達する(JATAによる)。つまり1974年は日本人の"大航海時代"が本格化しはじめた時期だといっていいだろう。成田はまだ開港していない(1978年開港)。
d0059961_10413857.jpg私が乗った1974年の時点ではパンアメリカン航空(Pan American World Airways)は長い歴史を持つ大きくて有名な航空会社であり、アメリカのナショナルフラッグの風格を感じさせた。会社の設立は1927年。最初の路線はキーウェスト~ハバナ線だったという。映画"2001: A Space Odyssey"(スタンリー・キューブリック監督。1968年。邦題『2001年宇宙の旅』)ではスペースシャトルにパンナムのマークが描かれていた。その後経営が悪化したパンナムは1985年に日本から撤退、1991年に消滅する。
私はPA001便を選んだわけではない。インドに行くために安い航空券を探し、貸し机ひとつで営業している怪しげな旅行代理店から買ったのがたまたまパンナムだったのだ。料金はたしか21万円。当時、安売り航空券はそれほど一般的ではなかったようで、これでも安かったのだ。その結果、私はわずかに残った300ドル(当時のレートで約9万円)を持って旅に出ることになった。
PA001便の001便たる所以は、世界一周便であったからだろう。パンナムが世界一周便(westboundが001便、eastboundが002便)の運行を開始したのは1947年のことで、その路線はwestboundの場合ニューヨークからはじまってサンフランシスコ、ホノルル、ウェーク島、東京、上海、マニラ、バンコク、カルカッタ、イスタンブール、ロンドンを経由してニューヨークに戻っていたという。なぜ世界一周便が計画され実行されたのか。それはおそらくこの便の収益に対する期待からではなく、この便の象徴性(=航空会社としてのプライド)に由来しており、19世紀的な、あるいは20世紀初頭に生きていた旅に対する憧れを具現化していたように思う。
私が搭乗する日も、羽田空港の出発掲示板のdestinationの項目には、"round the world"の文字が輝いていたはずだ。この言葉は飛行が地球を周回しながら無限に続くようなイメージを私にもたらした。
若い番号は優位を示すシンボルである。それはスポーツ選手の背番号でも乗り物の運行番号でも、それ以外の世界でも普遍的な現象だが、1番はその極致であって、もっともすぐれたもの、選ばれたものに与えられる魔法の数字だ。PA001便に乗った私自身にはなんの優位性もなかったけれども、それでもなにか特別の世界に旅立つ装置であるかのように感じられたのだった。
001便による世界一周。それは国際便に乗ることが私にとって宝石のように輝く貴重な体験であった時代、そしてまた世界一周という幻想的で観念的な旅のイメージが生きていた時代の記憶でもある。海外旅行の大量消費が始まると私にとっても海外は身近になり、一方でその便が何便であるかなどどうでもよくなっていった。私の中で001便はもはやマジックナンバーとはいえない。飽食の海外旅行時代の今、001便に関する記憶はひとつの時代の産物となった。

写真: "2001: A Space Odyssey"に登場するパンナムのスペースシャトル。
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by hatano_naoki | 2007-03-18 08:04 | 目撃・現代史
伊藤蘭との遭遇
d0059961_16191064.jpgたぶん1978年秋の解散からいくらも経っていなかった頃、渋谷・公園通りの東武ホテルを入っていった私とすれ違ったのが伊藤蘭、通称ランちゃんだった。
彼女がひとりでいたのか、それとも"関係者"と一緒にいたのかさえ覚えがない。なぜかといえば、ランちゃんの周囲には虹色に光り輝く靄(もや)のようなものがかかっていたのである。
その後、何人かの芸能人の実物を見たし、話をしたこともあったけれども、あれほどの靄には出会ったことがない。

キャンディーズのデビューは1973年、引退は1978年。わずか4年半しか活動しなかったというのは今となっては驚きである。
キャンディーズのレコードも買わず(CDの登場は1982年まで待たなければならない!)、もちろんコンサートにも行かず、テレビに出てくる彼女たちを見だけだった私はファンとはいえない。歌がうまいとも思えず、容姿が抜きん出ていたともいえないキャンディーズは、しかし胸がきゅんとなるような存在ではあった。そしてその幻惑的なイメージの中心にいたのが伊藤蘭だったのである。
スーちゃんはひとはよさそうだったが太めでちょっと暑苦しく、ミキちゃんもいい子だったに違いないが愛が足りなかった。しかしランちゃんはガラスのように壊れやすい容姿と程々のさばけた性格を組あわせたほぼ完璧な魅力を備えていた。
アイドルとは生きるという戦いの現場から降りて少し休んでもいいよとささやく存在だ。そこでは自己を弛緩させ、仮想の価値体系に身をゆだねることができる。その意味ではランちゃんはとてもやさしくささやく存在だった。
私がすれちがったランちゃんはたぶん23歳だったはずだ。つまりそれほど若くはなかった。血液型はおおざっぱなO型で、本人はそれほど繊細な性格ではなかったのかもしれない。
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by hatano_naoki | 2006-04-23 16:21 | 目撃・現代史
東京ディズニーランド開園(1983)
d0059961_22135288.jpg1982年の夏か秋頃のことである。
私が勤めていた会社に一人の男性がやってきた。応対した私に「日本にディズニーランドができるんですよ」と彼は言った。ディズニーランドにはさまざまなアトラクションに加えて多数の店舗ができる。その中のひとつの店で売る品物を仕入れるために彼は私のいた会社を訪れたのだった。
日本にディズニーランドができる・・・ちょっとマユツバな話だなと思った。しかしそれから商談はどんどん進展し、やがて実際に品物を納品することになったのは1983年の春、開園の少し前のことである。
納品に立ち会うために東西線の浦安駅からタクシーでディズニーランドに向かった私が到着したのは巨大テーマパークの裏にあるヘッドクォーターだった。おおぜいの白人が歩き回るヘッドクォーターはまるで進駐してきたアメリカ軍の基地司令部のようだ。
それからテーマパーク施設に入った。
人の姿のほとんど見えない広大なテーマパークを歩きながら私は奇妙な感覚を味わっていた。そこはまるで外国の町のようで、本物の外国の町にさえ見える。それまで遊園地というのは子供にもニセモノだとわかる安手な設備であふれた遊び場だったが、ディズニーランドはまったくの別物だった。それまでとは比べ物にならないほどの大量の資金を投下し、図書館ひとつ分のマニュアルで鎧(よろ)った人工の世界。
開園前だったから町全体が真新しく、しかもほぼ無人である。時間と空間がひずみ、ねじれて生まれた町だという気がした。まるでSF映画の一場面のようだ。町はよくできているが、その質感は本物とはちがう。本物に近づけることはできただろうが、与える印象をあえて物語の世界に少しシフトさせたのだろう。こういう操作も微妙なねじれの感覚を生み出しているのだなと思った。
それからだいぶ経って、開園後のディズニーランドに行った。
巨大テーマパークは活気があったが、ひずみとねじれの感覚は消えうせ、ディズニーランドという了解された幻想の世界を何の疑問も持たずに遊び尽くそうという貪欲な幻想消費者の群が視野いっぱいを埋めているのが見えた。

東京ディズニーリゾート

(写真:東京ディズニーワールド。下にディズニー・シーが見える。左側海沿いはホテル群)
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by hatano_naoki | 2006-04-21 21:50 | 目撃・現代史
水俣の記憶(1975)
d0059961_23562036.jpg道端のコンクリート壁にポスターが貼ってあった。
「水俣 新たな50年のために」という講演会のポスター。2006年4月29日午後2時半~6時、日比谷公会堂、司会:平田オリザ(劇作家)、講演:緒方正人(漁師・水俣病患者)、中原八重子(水俣病患者)、石牟礼道子(作家)、原田正純(精神神経科医師)、発言:柳田邦男(ノンフィクション作家)、田口ランディ(作家)、最首悟(現代思想)、上條恒彦(歌手)。入場料1800円・・・

水俣。
過去がフラシュバックし、突然、1975年に水俣に行ったときのことを思い出す。そういえば、以前私はこんな文章を書いていた。

***

夕刻、東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを西鹿児島行の寝台特急「はやぶさ」は走っている。
関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。
窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まりである。
となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。
あすの午後には水俣市の町はずれに住んで水俣病と患者の取材を続けているひとりの写真家に会うことになるだろう。名前は塩田武史という。わたしは彼に会うために西鹿児島行寝台特急「はやぶさ」で東京を離れたのである。

写真家と出会ったのは北インドのカジュラホである。
私は広大な亜大陸をさ迷っている途中で、写真家はナイロビかどこかでその仕事に対する賞を授けられた帰りだった。写真家はかなりいいホテルに泊まっていたが私は安宿の大部屋だった。そこにはインドではごく当たり前に見られる木の枠に荒縄を張っただけのベッドが並んでいたが、そのデザインは紀元前から変わっていないということだった。
その時この小さな村には合計で四人の日本人がいた。ひとりは何ヶ月も逗留していてその日本名をもじって「アショカ」と呼ばれており、もうひとりも長いことこの村にいて、私は数日前に来て数日後には出て行く者であり、写真家も数日だけ滞在する旅行者だった。そういう四人がどういうわけか一緒に食事をしたり無駄話をしたりする時間を共有したわけだ。
写真家はその2年前に『写真報告-水俣・深き淵より』(西日本新聞社)を出版し、またユージン・スミス夫妻、宮本成美氏他と共同で『不知火海・終りなきたたかい』(創樹社)を出版していた。ユージン・スミスは妻アイリーンと前年まで水俣に住んで取材に没頭していた。
帰国した私がなぜ写真家に会おうとしたのか、写真家がなぜ受け入れてくれたのか、今となってはたしかなことはなにもない。

寝台特急「はやぶさ」が水俣駅に到着したのは1975年の春のある日の午前10時かそれくらいだった。駅前に立つと300メートルほど先にチッソの正門が見えた。先入観のせいか軍事施設のように陰鬱だ。
駅のそばの安宿に入ると、お茶を持ってきた仲居さんが「記者の方ですか」といくらか疎ましいような口調で問いかけてきた。被害者の多くを占める漁民たちと工場と関わりを持つ町の人々の間にある亀裂が着いて早々に見え隠れする。
荷物を置くと町に出てバスで南へ4キロほどの距離にある月浦(つきのうら)に向かった。そこに写真家が住んでいるのである。小高い斜面の途中にある写真家の家はすぐに分かった。家に上げてもらい、ぼそぼそと話をした。それから写真家は私を車に乗せて付近の湯堂や袋の集落に行き、何軒かの民家に立ち寄った。写真家はそれぞれの家の庭先で村人と世間話をしたり縁側に座り込んだりした。私は存在を消すように して傍らに立っていた。夜になってから国道沿いの小さな食堂に立ち寄り夕食を食べた。写真家に別れを告げた私はバスで暗い国道を走って水俣の町に戻り、翌朝フェリーに乗って御所浦経由で天草に渡った。

その短い水俣訪問で写真家と一緒に会った人たちのすべてが水俣病の患者であるか家族に患者を抱えていたのだった。彼らは写真家にとって被写体であると同時に共に運動を進めている仲間でもあったが写真家は何も説明しなかった。写真家は私になんら「ブリーフィング」を行うことなくいきなり現場を見せたのである。
袋漁港に立って水面を見透かそうとしながら、私は水銀を呑んだ魚群が狭い水俣湾内に封じ込められたまま泳ぎ回る光景を想像した。

ここで水俣病事件の経緯を手短に述べるなら、水俣にチッソの前身となる窒素肥料会社が設立されたのは1908年のことである。
1953年、水俣病第1号患者が発病する。1956年には熊本大学が水俣病伝染病説を否定し、原因を工場排水と指摘する。1963年には熊本大学によって水俣工場排水中から有機水銀が検出される。
1968年、政府は水俣病を公害病と正式に認定。1969年、チッソに損害賠償を求める1次訴訟。
1971年から1988年にかけて患者被害者勝訴の判決がつづくが、1992年には東京地裁が、1994年には大阪地裁が、水俣病における国と県の責任を否定する判決を出す。
1996年、水俣病患者とチッソは政府解決案により和解する。
こういう流れの中で私が水俣に行った1975年は1次訴訟で熊本地裁が患者被害者の勝訴判決を出した1973年以降、状況が患者被害者の救済に向けて有利に展開していると思われた時期ということになる。

その後、写真家と連絡をとることはなかった。写真家はインドで会って一度だけ訪ねてきた男のことを速やかに忘れてしまったに違いない。しかし彼が解説することもなく事実だけを放り込んできたせいで、死んだために老いることのない友だちのようにそれらの事実が私の中で生きつづける。

***

私の水俣に関する記憶はそれだけだ。
東京に帰った私は塩田氏の写真集を買い、その中で数日前に出会った人々に再び出会った。

塩田武史という写真家とはいったいどのような人物だったのだろうか。
財団法人水俣病センター相思社の機関紙、「機関誌ごんずい」に掲載されたプロフィールによれば、
「1945年香川県生まれ。1967年より撮影を始め、1970年に水俣に移住。水俣病・水俣病闘争を写真雑誌などに発表。第一次訴訟当時の写真を多数撮る。1973年、『写真報告-水俣・深き淵より』を西日本新聞社より出版。同年、ユージン夫妻、宮本成美ほかと共同で『不知火海・終りなきたたかい』を創樹社より出版。現在、熊本市在住。」
となっている。

あれから30年が経った。
塩田氏はまだ水俣にいて相変わらず写真を撮り続けているはずだ。
私は曲がりくねった道をたどりながら、水俣に関して何も行動することはなく、しかしどこかにあのときの一日限りの記憶を宿してときどき触りながら生きている。
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by hatano_naoki | 2006-04-20 23:56 | 目撃・現代史
淺沼稲次郎刺殺事件(1960)
d0059961_3241013.jpg1960年10月12日、当時の社会党委員長、淺沼稲次郎は自民党・社会党・民社党3党の党首立会演説会が行われていた日比谷公会堂の壇上で右翼の少年に刺されて死んだ。
当時私は小学校の6年生で、おそらく学校から帰ってすぐにテレビのニュースでその瞬間の映像を見た。事件が起きたのは3時すぎ。私の小学校は徒歩3分の近さだったから、帰宅時刻は事件の起きた時刻あたりだったはずだ。
演壇に立つ肥満体の大柄な社会党委員長に脇から走りよってきた学生服姿の小柄な若い男が体ごとぶつかると、委員長はよろけ、メガネがずれ、それから倒れこむ。壇上は騒然となる。
すでにVTRが実用化されていたから、刺殺の瞬間の映像はこれでもかというほど繰り返し放送された。
刺したのは高校生だった山口二矢(おとや)という17歳の少年で、事件から1ヶ月も経たないうちに自殺した。
東京少年鑑別所の独房の壁に歯磨き粉を溶いて「七生報国 天皇陛下万才」と書き残して首吊り自殺したという。

人間が刺されるのを見るのはおそらく初めてだった。
映像は社会党委員長に若い男が体当たりするばかりで、刃物で刺すという生々しい生印象はなかったが、人が刺されるとはこういうものかと思った。
人が刺され、その人はいくらも経たないうちに死ぬのだが、その死はなぜか抽象的だった。
現実には同じ場面が繰り返して再現されることはない。VTRが現実を繰り返すことでその場の異常さを強く印象づけたが、やがてテレビはそのメディアとしての特性を露わにしはじめた。私の注意はだんだんと画像の枝葉に及んでいったのである。
社会党委員長は大きくて太っているが、右翼の少年はやせていて小さい。というようなことだ。右翼の少年が小柄でやせていることなど事件の本質と何の関わりもないが、彼らの体格の映像的対比は明らかにテレビ的だった。
こうして強い刺激を受けながらも一方でテレビというメディアの申し子であった12歳の私は、そのメディア特性を全身に浴びた最初の世代に属していたに違いない。
テレビ画面がモノクロだったことも関係があったかもしれない。前年の皇太子ご成婚でテレビは一挙に普及したが、ほとんどはモノクロ受像機だった。1960年はカラーの本放送が始まった年だが、普及率はきわめて低かったはずだ。
今になって改めて驚くのは、このとき戦争が終わってからわずか15年しか経っていなかったということだ。使われた凶器は自宅で偶然見つけた「五十糎位の長さの古ぼけた白鞘の日本刀」で、「刀身が赤黒く錆ぴて」いた(供述調書による)という。

山口二矢供述調書
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by hatano_naoki | 2006-04-18 03:24 | 目撃・現代史
アリスのうさぎ
最近、相関連する2つのサイトを見ることになった。
ひとつは「あなたへのEメール」というブログ。東大闘争を戦った当時の女子学生が当時を振り返る記事を書いている。
もうひとつは「1968年全共闘だった時代」というウェブサイト。日大闘争の渦中にいた人物が、こちらも長い沈黙を経て語り始めたという趣だ。
これらのサイトをざっと見渡して感じるのは、彼らがごく普通の市井のひととして生きているらしいこと、しかし過去の出来事=大学闘争を忘れていないこと、それらが昔とほとんど変わらないほどの純粋さと激しさで彼らの内部で息づいていることだ。
これらのサイトは過去を振り返ることに興味を持たなかった私のからだを過去の方角に少し振り向かせる働きをした。
彼らはおそらく私と同世代で、当時は時代の中心にいた。私自身は時代の縁辺にいてヘルメットをかぶることも機動隊と対峙することもしなかった。学生運動には懐疑的だったが、よくわからない共感も抱いていた。
それから少し時間が経過すると騒動は沈静化し、騒いでいた連中が皆お行儀よく社会に順応していることに気づいた。私は気づくのが遅かったのかもしれないし、単に怠惰だったのかもしれないが、いずれにせよ、私は裏切られ取り残されたのだという感覚を強く持ち始めた。
何からどのように裏切られ取り残されたのか?運動の真っ只中にいたわけでもない私がそう思うのは筋違いかもしれないが、そう思ったのだ。
どいつも信用できない。オレはオレで生きてゆく。時代の扇動とか、流れとか、そういうものも信用できない。過去は語るに足りない。だから語らない。私には同世代も同時代もない。それらとははぐれ、見失ったが、後悔しない。
しかしここにきて、いくらかは書き留めておきたいことがあるのかもしれないと思った。
あえていうなら、現代史の中で私が何を目撃し、どう思ったか。それだけの記録。ちょっとやってみようか。
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by hatano_naoki | 2006-04-18 01:52 | 目撃・現代史