カテゴリ:歌が私を・・・( 14 )
『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』を聴きながら
キューバをめぐるわたしの心象は、日本と聞くとゲイシャとニンジャとツキジとアキハバラが浮かんでくる外人と同じように、ポンコツのアメ車とブエナビスタ・ソシアルクラブとチェ・ゲバラとからできている。
それから浅黒いひとびととさとうきびの畑と米軍基地と疲弊した社会主義。
カストロが死ねばアメリカと和解して親米に舵を切り直すにちがいないこの骨董品のような社会主義国家はいまはまだ、遠くからみているかぎりロマンチックでレトロでノスタルジックな空気を漂わせて誘惑的だ。行くならカストロがようやく生きている今なのだろう。

映画『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』(1999年製作)をDVDでようやく見た。
音だけは以前から聴いていたが、映像で見てみると歌はもちろんだが、老いたミュージシャンたちの語りとか表情とかが実にいいのだった。
彼らはたまたま死の間際(といってもいい時期)に「発見」されたが、すばらしい才能を持っているのに発見されずに死んでいく恵まれないミュージシャンはほかにもいるはずで、キューバの老いたミュージシャンを見つめながら「すばらしい才能を持っているのに発見されずに死んでいく恵まれないひとびと」という普遍的な人間像についてかんがえている自分に気づく。
たくさんのすばらしい歌い手が登場するなかで、イブライム・フェレール(Ibrahim Ferrer)とオマーラ・ポルトゥオンド(Omara Portuondo)がよかった。映画の頃の年齢は72歳と69歳あたり。ふたりとも(そして他の登場人物も皆)楽ではない人生を歩んできて、それが彼らの立ち居振る舞いと表情とに豊かな情感とともにあらわれている。彼らを見て聴き入りながら、彼らの人生そのものに入り込んでいく、あるいは引きこまれていく。
老人が歌うラブソングの切なさもわたしにとっては発見だった。老人もひとを好きになるが、社会は恋愛にふさわしい年齢区分を決めているからこのルールを外れるにはちょっとした勇気(あるいは世俗的な権力)が要る。しかし歌なら別だ。詩歌、小説、演劇、絵画、諸々の芸能と芸術の世界でも恋愛は想像力の中で生きつづける。
ライ・クーダーは掛け値なしにいい仕事をしたと思うけれども、これも西欧による非西欧世界の発見の一例なのだなと思っている自分もいる。そういう側面がこの「発見」にはあるのだ。彼らは発見し、価値を認め、メディアを通じて広めたが、西欧はここ何百年も、初期には植民地主義と手に手を携えて、こういう作業をつづけてきた。こういう文脈に『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』を置き直してみるとかすかな憂鬱がある。
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by hatano_naoki | 2011-08-06 23:58 | 歌が私を・・・
前田敦子の孤独
AKB48の前田敦子には絶対エースとか絶対的エースとかの形容がつく。現時点でAKB48最大のスターであるのはまちがいない。
一方でファンのあいだに批判勢力があって、主にネット上で中傷がくり返されている。人気のあるアイドルにアンチが生まれるのはめずらしくないだろうが、盛り上がりがちょっと異様にかんじられる。彼女はなぜアンチに悩まされるのだろうか?
たまにみせるちょっとだるそうな、やる気のなさそうな態度とか、寝てばかりいるとか。彼女の態度や雰囲気にイラッとさせる要素があるのかもしれない。『情熱大陸』では「わたしを番組にしてもおもしろくないでしょ」というような意味のことを言っていたのがおもしろかった。そして番組の仕上がりは彼女が予言したとおりだった。
一連のバッシングを「傍聴」していて思ったのは、これはいじめの構造だなということだった。理由が明確にあったというのではなく、まず彼女を単純にムカつくとかんじる少数がいて、集団で(ここがすでに下劣なのだが)ひとりを攻撃しているうちにことばの共振で攻撃の度合いが強くなっていったというような。罵倒するにつれて自分が興奮してくる。汚いことばが自分を支配しはじめる。
まったくの想像だが、彼女の熱狂的なファンの絶対数はそれほど多くない。アンチはさらに少なく、たぶんごく少数にすぎない。その少数が大量の攻撃をおこなっているというイメージだ。

わたしの知る範囲ではAKBのセンターはフォーメーションとしてセンターを据えたいというプロデュース側の意図で生まれ、そこにまだ子どもといってもいい年齢の前田敦子がフィーチャーされたということらしい。それから運命のようにセンターとしてやってきて今に至っている。
前田敦子という個性は誤解されやすいかもしれない。大島優子のような明るさとサービス精神に欠けるし、思ったことをなめらかに口にするタイプでもない。そして働きすぎて疲れている。
それでもわたしは前田敦子からある種の感銘を受けている。ほかのメンバーにはない(というとおこられそうだが)ある要素を彼女がもっているようにみえるからだ。それはひとことでいうなら孤独である。やさしい母親がいて、AKBの創設以来苦労してきた仲間がいても、人間には孤独が生まれるのだ。それは彼女に内在するもので、外の世界との関係で生まれたものではないというふうにかんじられる。その孤独と戦っている気配、孤独と会話している気配があって、彼女自身も気づいていない深みのようなものがそこから生まれ、彼女に陰影を与えている。
そのような側面を持ったうえで、彼女はセンターに君臨する。百数十人もの人数から構成されるAKBのスターシステムのピラミッドの頂点にいるのだ。舞台のうえにいる彼女には孤独の影はみえず、ときとしてなまめかしい笑みを浮かべることすらある。
まあここに書いたことの全体が妄想にすぎないのだろうが、大衆は芸能人に対してなにかを仮託することができる。
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by hatano_naoki | 2011-08-05 22:32 | 歌が私を・・・
桂銀淑(ケイ・ウンスク)のこと
桂銀淑(ケイ・ウンスク)という韓国からきた演歌歌手がいた。テレビで見かけることも多かったのがいつの頃からか姿を見なくなった。
あるときYouTubeをふらふらしていると彼女の映像に行きあたったのでなりゆきでいくつか見て(聴いて)いるうちに、みるみる引き込まれていった。
特によかったのは『つぐない』だった。桂銀淑のカバーする『つぐない』はちょっと温度が低くてちょっと乾いた情感に満たされているようで、わたしはいいカバーだと思った。
そしてなによりも声だった。いわゆるハスキーボイスだが、その声そのもので自分の感覚のどこかに直接触れられるような戦慄があった。聴覚だけでなく、もっとさまざまな感覚器官が震え、それらが雪崩れうって脳髄に駆けあがっていく。
そしてまた彼女の醸し出す雰囲気だった。静かであり、演歌にありがちなオーバーアクションではない。わたしが見た映像はおそらく40歳かそれくらいのときだろうか、若さが生み出す魅力はいくらか翳っていたが、そのかわりにそれなりの歳月を超えてきた静謐があった。
それでスイッチが入ったように彼女が日本にきて最初に歌った『大阪暮色』(1985年)からつぎつぎに聴いていった。
日本にきたばかりの若い頃は声そのものに本質的なちがいはなくてそこに魅力があるが、それほどの深みはなく、美しくてコケティッシュだが凡庸ともいえる。しかし年齢を重ねるにつれて時間の深みとでも呼ぶべきものが彼女の空間を支配するようになっていく。
典型的な演歌を歌っていてもそこからかんじられるのは負のエネルギーの横溢する怨念や諦念とかいうのではない。当時の日本のニーズが彼女を演歌歌手にしたのだろうが、ブルースを歌ってもよかっただろうと思わせる。
彼女が消えたのは数年前に覚醒剤所持で逮捕され、国外退去処分になったからだということを改めてたしかめた。歌手としての時間のほとんどを日本ですごしてきた彼女が日本への入国を許されないというのは歌手として死んだも同然だし、なんて馬鹿なことをしたんだと思うけれど、それも人生の変転のひとつの局面であるわけで、他人には負うこともできはしない。人生にはいろんな思いがけないことがある。
もう50歳になるはずの彼女は老いた母親とソウルで暮らしていて、いくらか歌手活動をはじめているらしい。何ヶ月か前に、彼女の執行猶予が終わる瞬間がみじかいトピックとしてテレビ番組に差し込まれていてそれを見たが特に感慨もなかった。見たいのは歌う彼女であり、その心地良い声が聴きたいだけなのだ。
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by hatano_naoki | 2011-07-22 06:33 | 歌が私を・・・
Bophana活動休止
Bophanaのブログを久しぶりに見に行ったら、今日書き込まれた活動休止のメッセージが目に飛び込んできた。
Bophanaのブログのプロフィールには「山田里香(Vo.&Shaker)、小池龍平(G.&Vo.)、織原良次(B.)による サンバ、ボサノヴァ、MPB等のブラジル音楽を独自の解釈で演奏するアコースティック・トリオ。2003年4月結成。」と書かれている。
ボーカルの山田里香さんとは偶然知り合って一度か二度会ったことがある。それも彼女の音楽性に魅力を感じたからではなく、お母さんがカンボジア人だというのがわたしにとってのキーワードであったので、そこからシハヌーク時代にプノンペンに住んだことのある彼女のお父さんにインタビューすることにもなり、その結果は『キリング・フィールドへの旅』の中に書いた。
彼らの音楽についていえば野外ライブをちょっとだけ聴いたことがあるという程度でしかなく、そのときもはっきりいって彼女の声だけを聴いていた。しかし人間の歌声というものは実に感情を載せて飛翔する乗り物であるので、そのライブは実に印象深く豊かな感情となって記憶に残った。
ある音楽的な結合がほどかれてそこにいたメンバーがゆっくりと拡大する星雲のようにお互いの距離を広げてゆく。そこでなにが起き、どのようなプロセスをたどっていくのかはわたしにはわからないが、一抹のさびしさのようなものを感じるのは事実だ。
わたしの知る歌い手がこれからどのような旅に出るのか、なぜだか気になる。
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by hatano_naoki | 2008-06-30 21:05 | 歌が私を・・・
moumoonを聴きながら
夕方、新宿駅近くを歩いていたら路上ライブがはじまるらしかったので立ち止まって待った。路上といっても新宿通りと靖国通りを結ぶ幅広い道で、普段は車も通っているがけやきの並木があっていろいろなイベントが行われる。
ライブはmoumoonという聞いたことのないデュオで、女性のボーカルが歌い始めると張りのある歌唱が新宿の雑踏を圧倒した。その最中、googleでこのデュオがどんな存在なのかを知ろうとする。3分後には彼らのおおまかなプロファイルをつかんでいた。それなりに知られているらしく、インストアライブをこなして次のステップを狙うというような位置にいるらしかった。
歌い手というものは、大衆から突出した存在なのだなと思う、芸能一般がそうだといってもいい、声で語りかけ、存在をさらして生身で表現する。それにくらべたら文章を書いて本にして本屋に並べて買い手を待つなんて相当にささやかな行為だ。
路上でわたしはひとりだが、雑踏はそれほど凶暴ではなく、むしろくつろいだ雰囲気さえ感じる。この盛り場をもう何十年も知っているから、これまでにわたしが歩いた足跡をすべて残しておいたならそれだけで街路の地図が描けるかもしれない。路上でライブを聴くわたしはとてもくつろいでいたに違いない。
moumoonはそれなりによかった。彼女の歌はわたしの周囲を浸し、その水位はゆっくりと上昇していった。
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by hatano_naoki | 2008-06-19 22:07 | 歌が私を・・・
You'd be so nice to come home to
You'd be so nice to come home to
You'd be so nice by the fire
...

この心地よさはなんだろう。
フランク・シナトラの唄う"You'd be so nice to come home to"を幾度となく聴いている。シナトラをいいと思ったことはないが、思い違いだったらしい。ただし、シナトラがいいという以上にこの曲そのものがいいというべきだろう。
この曲が現れたのは第二次世界大戦中だということだが、それから1950年代にかけてのアメリカという国が生み、育てた時代の空気と雰囲気の一端が垣間見える。そこに生きたわけでもないのに懐かしく思い出されるという不思議な感覚。
わたしは同時代の人間の中で比較的アメリカ文明に毒されていないはずだが、それでもそのように感じるということから、わたしたちがアメリカという逃げようのない巨大な影のもとに存在していることを思い知らされる。だがシナトラを聴いて心地よい思いをしながらも意識は完全に解放されていなくていくらかのわだかまりを感じている。それは好意的にみれば問題意識であり歴史認識だが、一般的にいうなら音楽に余計な濁りを持ち込むばか者ということになるのだろう。
時代も社会も歴史も、そしてその中の小さな事件や潮流や、文化の変貌や、それらすべてはいろいろな要素が貼りあわされてできあがった多面体である。それらすべてを肯定することなどできはしない。もちろん否定も。
あれこれ行ったりきたりしながらも聞こえてくるシナトラは快感に違いなく、そういう感情の皮膚感覚は信じざるを得ない。混沌を飲み込んでもうちょっとシナトラを探してみようか。
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by hatano_naoki | 2008-06-07 18:20 | 歌が私を・・・
ZARDに癒されなかった日々
ZARDの坂井泉水の作品に人生の応援歌としての要素があることは、もちろんそういう要素だけで彼女の楽曲が成立していたのではないにせよ、多くのひとが指摘している。
つらさを癒し、立ち直るために歌を聴くひとがいて、それも少なくないひとたちがそういう行動をとっている。そして、そういう彼らのために歌う歌い手がいる。歌が人生の苦しみや痛みを癒し、明るさを与え、再生を後押しするならば、それはすてきなことだ。
で、私は。私は歌に癒され、歌に支えられて人生の明るさを取り戻したことがあっただろうか。
たぶん。ほぼ、ないだろう。そればかりか、歌にも小説にも、なにものかに癒された記憶は皆無に近い気がする。
癒されるということは、そのとき目を閉じ、思考を停止し、下降し、ときには後退し撤退し、繭の中でまどろんでいるのだ、と私は考える。そういうのは嫌だし、癒しという言葉自体もとことん嫌いなのだ。いかにひどいことであれ、対象を凝視すべきだし、それでくたばっても自業自得というものだ。
こういう考えだから私の内部に歌が棲みつかないにちがいない。それはさびしいことだが、そう思う私は歌に救われない人生にある種の矜持を感じてもいる。ZARDに癒されなかった私の日々は、いわばブリキの勲章である、と。
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by hatano_naoki | 2007-06-18 21:45 | 歌が私を・・・
テレサ・テン「空港」
何も知らずにあなたは言ったわ
たまにはひとりの旅もいいよと

テレサ・テン(鄧麗君)が日本に登場したのは1974年のことである。
彼女が現れた時、この大柄で丸顔の演歌歌手にそれほど興味はもてなかった。中国人や韓国人の歌手が日本の演歌を歌うという流れが当時の歌謡曲の世界にはあって、その路線の上にたまたま輸入されたキャラクターのひとりであるにすぎないように思われた。
しかし今になってみると、彼女の存在はひときわ輝いて見えるし、その濃厚な演歌の世界がひとつの完結した世界を作っていると感じられる。
まずなによりも、その歌唱力である。今はほとんど息絶えてしまった日本の演歌という芸能がまだ一定の存在感を持っていたころの、もっとも演歌らしい世界がこの台湾人の女性歌手によって実現されていたことも特筆すべきだ。さらに、当時の日本の大衆からみれば唄のうまい歌手にすぎなかった彼女がいまや伝説的ないくつもの謎に包まれていることもその存在の陰影を深めている。台湾人であるテレサには政治的な側面があって、台湾独立運動との関わりも指摘されているし、その意味では一種の工作員であったといえないこともない。
数年前に北京に行ったとき、テレサの北京語で歌っているCDを買った。そのころまでには中国本土ではテレサの唄が解禁されており、自由に買うことができたのだ。それだけ中国が自信を持ち始めたこと、一方でテレサの政治的威力が弱まって歌手としての評価に絞られていったことの現われだと思う。
「空港」はデビュー2作目で、私が印象付けられた最初の唄だが、当時はコテコテの演歌など好きではなかった。つまり私はテレサが活躍していた当時のファンだったとはいえない。その後、テレサが死んで歴史の向こうへと退いていくにしたがって、魅力的に感じられるようになっていった。今でもときどきテレサの唄を聴くことがあるが、その歌声に生きる情感は、今ではアジアへの愛であると感じられる。
1953年生まれのテレサは1995年にチェンマイで死んだ。その死もなにか謎めいていた。謀殺だというウワサもあったと思う。
耐える女の古い唄を日本語で歌っていた演歌歌手テレサは、その後の時代の流れの中で悲劇的であることによって英雄的になり、アジアの現代史に燦然と輝く星、現代アジアを描いた叙事詩の中の主人公のひとりとなった。その生の歌声を記憶している私は歴史の目撃者であるという気さえする。
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by hatano_naoki | 2007-01-02 19:33 | 歌が私を・・・
モンローウォーク
d0059961_18295191.jpgつま先立てて海へ
モンロー・ウォークして行く
いかした娘は誰
ジャマイカあたりのステップで
・・・ 

どういうわけか南佳孝の「モンローウォーク」が耳についている。
郷ひろみのカバーはまったく記憶にない。
南佳孝は1950年生まれ。モンローウォークは1979年の作品である。この歌手のファンだったわけではなく、「モンローウォーク」一曲が気に入っているのすぎないのだが。
「モンローウォーク」の描き出す世界が好きだ。都会的で自由で軽快だ。モンローウォークで男たちの注目を集める若い女はどんな因習とも無縁で、しかもポジティブな生き方をしているに違いない。コケティッシュだが隠微ではなく、明るい色気がある。
d0059961_1915506.jpgたとえば私が幾重にも折り重なった暗い思考の谷間からようやく這い出してくると、そこに輝く太陽がある。そんな心象風景にこの「モンローウォーク」が重なるのだ。

追記。
軽快な「モンローウォーク」に比べると本物のマリリン・モンローのイメージは痛切だ。どういうわけか、マリリン・モンローの記憶はとても痛い。

(写真上:南佳孝 下:本物のマリリン・モンロー)
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by hatano_naoki | 2006-05-03 18:20 | 歌が私を・・・
異邦人
d0059961_1594467.jpg久保田早紀のデビュー曲である「異邦人」の発売は1979年で、私はといえば帰って来ないつもりだったアジアの旅から帰ってきてしまい、就職してから数年経ったころだ。
この歌のかもし出す世界が私のアジアの旅の記憶を呼び覚ましてつらくせつない気持にさせただけでなく、本人の美しさ、穢れのなさ、透明感が印象的だった。
少し砂のまじる西アジアのマーケットの空気を感じさせるけれども、たしか彼女自身はそういう場所に行ったことはなく、想像の世界でこの曲を作ったはずだ。曲名は最初「白い朝」だったということも聞いたおぼえがある。
彼女の大衆的なマーケットでの活動期間は短く、やがて姿が見えなくなった。その後ずいぶん経ってから教会でクリスチャンとしてコンサート活動をしていることを知った。
こういう生き方もあると、なぜか私は思い、気持が平和になるのを感じたものだ。
いまでも携帯にATRAC3フォーマットで入れてあり、ときどき聞くことがあるが、受ける印象は昔と変わらないし、そこから触発される帰ってこない旅に出たいという願望も消えていない。
自分が"異邦人"であるという感覚は一度味わうと宿痾(しゅくあ)のようにとりついて離れないものだ。自分自身、何十年も前の長い旅の中で味わった異邦人の気分が、旅から帰ったあとも生涯を貫く気分として生き残っているのを感じつつ生きている。

ミッション・フォートス・オフィシャルウェブサイト
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by hatano_naoki | 2006-05-02 01:58 | 歌が私を・・・