カテゴリ:ネットとデジモノ( 191 )
FOMA STICK
d0059961_19473156.jpgドコモから明日発売されるソニー・エリクソン製のSO902i、通称FOMA STICKのモックに触ってきた。
予想以上の出来だ。
表示情報の増大とともにストレート型が駆逐されてクラムシェル型一辺倒だったのが、ここに来てストレート型への回帰ともいうべき傾向が一部に見られ、この製品もそうした流れの上にある。最近はストレート型のほうが新しく洗練された印象を与えるのが面白い。
318万画素オートフォーカスカメラ(しかも動画撮影時は手ぶれ補正可能)を内蔵し、表側は携帯電話だが裏側は完全なカメラの顔を持ち、デザイン的にはどちらも表だという考え方だ。
その他の仕様は凡庸で特に見るべきものはない。シンプルな、小さくてスタイリッシュな機械を目指したのだろう。
グリップ感はすばらしい。実にしっくりとくるし精密感があって、手に持つ小さな機械としては人間工学的に最高の部類に属すると感じられた。実にセクシーだ。
しかし私がこの機械を買うことはない。いまや私の意識はPHSにシフトしており、具体的にはWILLCOMの展開するPHSサービス(良好な通話音質、定額でのパケット通信、フルブラウザ、POPメールの取得、そこそこのマルチメディア機能の組み合わせ)を支持していて、携帯電話という存在にさほど興味をもてなくなっているからだ。
いなかに行けば携帯は必須だが都会では携帯は要らない。現在所有しているドコモの回線は完全に眠っている。
それともうひとつの要因はこの秋に始まるナンバー・ポータビリティである。1993年以来持ち続けてきた携帯番号を失いたくないだけの理由で基本料金を払い続けてきたのだ。ナンバー・ポータビリティが始まればその時点でもっとも魅力的な端末を買うことができるだろう。
あと半年の辛抱だ。たぶんauのワンセグ端末に移行すると思う。

モバイルナンバーポータビリティと携帯市場(野村総研News letter。pdf)
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by hatano_naoki | 2006-03-20 19:47 | ネットとデジモノ
ケータイブログ
d0059961_10412480.jpgWILLCOMが自社のフルブラウザ付PHSを対象にしたブログサービスを始めたので、サービスの開始日に入った。20番目くらいの参加者だった。初期のユーザーでなければ感じられないものがあるというのが私の人生を貫く信念(?)である。
もっともこのブログを真剣にやるつもりはなく、いわば"偵察"だ。
このブログサービスは定額での無制限アクセスが可能なWILLCOMの料金体系のメリットを生かすとともにSNS的な味つけもしている。"コミュニティ"を誰でも作ることができるし、サービス加入メンバー同士でメッセージ交換もできる。早速自分のブログを作り、コミュニティも作ってみた。
ケイタイブログは制約が大きくてたいしたことはできないが、これはこれでハマる要素がある。電車の中の10分で書き込める。たいしたコミュニケーションは生まれないが、それで充足するひともいる。
私の印象では招待制のコミュニティを作って既知の小グループのコミュニケーションに利用したら楽しいだろうと思う。文字ではなくケイタイの内蔵カメラを活用して画像中心のコミュニケーションが向いているかもしれない。それで私は、あまり期待はできないが、"トマソン"的都市観察コミュニティを作ってみた。
それにしても最近のSNSではメッセージは短いものが多い。2チャンネルはもっと極端だ。会話ではなく独り言とかつぶやきとかため息とかに似ている。気配の交換、あるいは交換にまでも至らない。
コミュニケーションではなくコミュニケーション"のようなもの"。そこでひととひととが本当に出会っているのかどうか、私には確信がもてない。
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by hatano_naoki | 2006-03-15 08:30 | ネットとデジモノ
ブログの現状、あるいは私とブログ(2)
まだこの道具を理解できていないというはがゆさがある。
どんなブログを私はお手本にすべきかと考える。それはお前が創りだすものだ、とは思わない。この世には独創などそれほど多くない。たいてい誰かが先行している。
私はこのブログに対して創作メモのようなイメージを持っているのだと思う。場の認識としては表ではなくウラだと感じており、それがブログのタイトル(密航者という意味だ)に現れている。創作の楽屋裏だが、他人に見られることを意識してもいて、その意味では楽屋とも言い切れない。外部から観察されることを意識している内部。外部に突出した内部の気配。
・・・場は可塑性があるから、想像力で捏(こ)ねてつくる。
そこでは誰が何を言ってもよく、これに対して無視しても反発しても追従してもかまわない。コメントやトラックバックを拒否してかまわない。ブログを道端に置いた小さな演壇にしても、場末の小さな飲み屋のカウンターにしてもかまわない。懺悔室にしても教室にしてもかまわない。毎日どのように過ごしたか。何を食べ、どこに行ったか。読んだ本、見た映画、感動したできごと、がっかりしたできごと。社会の動きを見て、分析して意見をいう。時代を切る。自分の視点を誇る。自分の好きなものや趣味について書く。自分の住んで愛している土地について書く。
そうして自分の意識や思考をテキストで(写真でも音でもムービーでもかまわないが)できるだけ長い期間にわたって記録し続けることで、その時間の長さの奥からやってくるものがある。それに出会えるひとは幸運だ。
実に多くのひとびとがブログに日々書いている。テキストによる自己表現の大航海時代。この航海に出るひとびとの3人に2人は海の藻屑となる。生き残ったひとびとのひとりひとりを15人の天使が見守っている。幸運なひとにぎりだけが新しい大陸を発見する。しかし彼らは黄金を目指して船出したのではない。自己表現の愉悦が彼らを駆り立てたに過ぎない。
書かれたことが本当らしく見えても、何が本当で何がウソかを情報をつきあわせて真偽を検討しなければならない。だから自然と情報に対するシニカルな姿勢が身につくだろう。これはちょっとした成長だ。しかし素直な人たちもいて、彼らの間を曖昧な情報がぐるぐる回るうち、曖昧だったものが真実らしきものに変容してゆく。参照や引用の回数がクセモノだ。
魔女狩りが起きる。鬱屈した言論愉快犯がそこいらじゅうに潜んでいる。
どうにも収拾のつかないネット民主主義の時代。為政者にとっての幸運はブログにおける言論が個人に依存してそれぞれにブラウン運動を繰り返しており、大きな流れになるとは思えないことだが、油断は禁物である。
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by hatano_naoki | 2006-03-11 21:06 | ネットとデジモノ
LEGOロボットが欲しい
d0059961_18581278.jpgLEGOのmindstorm(マインドストーム)シリーズの新製品、LEGO MINDSTORM NXT が夏ごろに発売されるらしい。
高度なプログラミングが可能で、USB 2.0、Bluetoothでのプログラム転送が可能なだけでなく、Bluetooth搭載の携帯電話やPDAからもコントロールできるできるという。サウンドセンサー、ライトセンサー、タッチセンサーもある。
MINDSTORMシリーズがスタートしたのは1998年。その最初の製品を買った覚えがある。プログラムの才能のない私はMINDSTORMさえももてあましたのだが、それでも箱を開けたときのわくわく感は本物だった。
LEGOの根源的な魅力はブロックとブロックのきっちりとした接合感覚にあると思う。固過ぎず緩すぎない絶妙な感覚。もちろん想像力を働かせてブロックを組んでゆく楽しさもあるが、実際のところ高度化した最近のLEGOではひとつのセットに複数の完成形を想定した特別なパーツが用意されていることが多いし、基本的にはマニュアルを読みながら作っていくことになる。つまり想像力を働かせる余地はそれほどないということだ。
そういう閉塞感というかブロック遊びの矛盾を打破したのがMINDSTORMだ。このセットではブロックを組みあげる満足感はそれほど重視されていない。ロボットを作りプログラミングして動かすという別の遊びになっている。ブロックは部品としての機能面よりもオブジェのような洗練された"エレメント"としての存在感を主張しているように見える。
価格は300ドルを切る程度らしい。世界で最も安いロボット学習キットということになるだろう。

[LEGO社]
1932年、デンマークで創業。製品のひとつが木製玩具だった。2004年現在、従業員数約7,000名、売り上げは67億デンマーククローネ(約1250億円)。

LEGO社のプレスリリース
LEGO社ウェブサイト

(写真:LEGO MINDSTORM NXT で組み立てた二足歩行ロボット)
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by hatano_naoki | 2006-03-09 18:57 | ネットとデジモノ
死者のアーカイブ
私がいつ死ぬかはわからないが、いつかは死ぬ。その後、私のウェブサイトはどうなるのだろうか?
おそらく廃止されるだろう。
私のウェブサイトは私個人に依存しており、私の死はすなわちサイトの死であるからだ。
ところで、私が死んだあとで、どこかにサイトのコンテンツ一切をゆだねることはできないだろうか?私の死でサイトが消滅するのではなく、いわば"死者のアーカイブ"の領域に移動して生きつづけることができないか?
WWWが生まれていくらも経っていない。ウェブサイトの所有者が死ぬケースは今はたぶんそれほど多くない。しかしこれからはどんどん死んでゆく。こういう状況に対応するために巨大なストレージ空間を用意して、貴重なコンテンツを救うことができないか?
"死者のアーカイブ"はウェブサイトの"墓場"だから、動的な情報の追加・更新はできなくなるが、そこに蓄積された静的情報は資料的価値を持つ可能性がある。このようなコンテンツにはクリエイティブ・コモンズの考え方が採用できるかもしれない。
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by hatano_naoki | 2006-03-06 02:16 | ネットとデジモノ
ブログの現状、あるいは私とブログ(1)
ブログが最近どうなっているのかと調べてみた。
総務省のブログ・SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)の現状分析及び将来予測(平成17年5月17日)という報道資料によると、
「2005年3月末時点の国内ブログ利用者数は延べ約335万人、アクティブブログ利用者(ブログ利用者のうち、少なくとも月に1度はブログを更新しているユーザ)数は約95万人、ブログ閲覧者数は約1,651万人。2007年3月末にはそれぞれ約782万人、約296万人、約3,455万人に達すると予測。」
だそうである。実際にはどうなったのだろうか。
ブログユーザーのプロファイルは、若い層(大学生・院生など)、女性が多く、ホームページを持たないユーザーが増えているという。
若いひとたちが気楽に開設するが3分の2は更新されず放置され、またアクティブに書く人々のブログを数にしてその15倍もの人々が読んでいるということらしい。つまりブログは読み物だ。
ブログの大半は単なる個人的な日記であって誰も読みに来ないので飽きてしまう。これが放置される理由になっていると想像する。
ブログジャーナリストを自称する、あるいは自覚する人々もわずかにいるようだが、ちょっと気持ち悪い。
かなり多いのが、ためいきとかぐちとかひとりごとの類。ブログ日記が鍵をかけて机の引き出しにいれる日記と違うのは分かっているはずだが、他人との間合いの感覚や、その人にとって他人というものが存在するのかどうかなど、不思議に思うことも多い。
このあたりのテーマに関連して、glocomのサイトでised@glocom(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)というのを見つけた。ただし内容未検討。
トラックバックをめぐる4つの文化圏の文化衝突-「言及なしトラックバック」はなぜ問題になるのかという記事も面白い。
この記事ではブログをやる人を四つに分類しているが、私は"「言及リンク文化圏」に属する非寛容なネット原理主義者"だということになる。
ブログの特徴であるトラックバックの機能が仕様として公開されたのは2002年8月で実装はそのあとだからその歴史は歴史ともいえないほど短い。
ブログは(トラックバックセンターという意味ではなく)本質的にその分野の中心となる他のブログを求める、あるいは自分がその中心となろうとする、こうした情報のネットワーク化をトラックバックによって果たそうとする?
私がずっと感じてきたブログへの抵抗感、違和感、不適合感は最近はだいぶ小さくなってきた。
考えてみると、パソコン通信からインターネットへの心理的な移行はずいぶん時間がかかった。同じように従来型のウェブサイトに加えてブログで何かをすることにも抵抗があった。
パソコン通信からウェブへの移行は、簡単にいうとコミュニケーションからみれば密から疎への移行であり、場としては集中から拡散への移行、表現ではテキストからビジュアルへの移行でもあった。
ブログの登場によって再び雑多なテキストを生産する時代がはじまった。ブログの生み出す人のネットワークをいまだ実感できない私は、ウェブでは感じない孤独を感じる。しかしそれ以前はウェブは孤独だった。こう考えてみると、孤独でないブログの時代が私に訪れるのかもしれない。
インターネット上でテキストのみの日記を書きはじめたのは2001年7月だった。単独に存在する日記というよりもウェブサイト「アンコール遺跡群フォトギャラリー」のコンテンツのひとつとしての編集後記的な位置づけだった。
2003年12月にはニフティでブログ(トーキョーデイリーライフblog)を始めた。このブログは2004年12月まで約一年間断続的に書いていた。それからテキストの日記に戻り、2005年11月まで続けた。それからブログに完全移行した。
昔からあるテキストによる日記とブログを行ったり来たりしていたわけだ。
その最大の理由はブログで書くテーマを見つけられなかったことにある。テキストの日記にはウェブサイトの付属物としてカンボジアを一応のテーマにしていたが、ブログは独立した存在だ。ブログとして独立できるテーマ性がぜひとも必要だと考えた。
よくあるブログの内容は基本的に個人の日記として自分に起きた日常のできごとをつづり、ときどきは世間にも目を向けるというような具合になっている。しかし私としてはいわゆる日記サイトにはしたくなかった。
そこに「勉強ノート」という考え方がうまれたのは幸運だった。すでに蓄積済の自分の知識や見識を披瀝するのではなく、自分がなにかを知ろうとしてゆく過程の記録としてのブログ。これならば脆弱な知の柔らかい脇腹を世間にさらすことができるのではないか。
もうひとつ、"いつも加筆中"というスタイルをとることにした。書かれた文章は決定稿ではない。いつもゆらいでいる執筆途中の文章の羅列。
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by hatano_naoki | 2006-03-03 00:12 | ネットとデジモノ
Bluetooth腕時計と携帯電話の間に
d0059961_17564117.jpgセイコーインスツルメンツが携帯電話とBluetoothで通信できる腕時計型の実験機を開発したという。
プレスリリース
実験機だから巨大だが、時計としてなかなか美しい。半分くらいの大きさ厚さにすれば発売してもいいほどの(むしろ少しセンスを落として受け入れやすくしないといけないほどの)完成度だ。
腕時計の生産は2002年までの21年間で約4.8倍に増えたがその9割は輸出に向けられるという(産業データプラザ)。今何時かを知るには携帯があればいい。腕時計という汎用的な道具は滅びつつあり、安価な消耗品か、専門的な分野に特化するか、マニアックな世界に小さな市場を囲いとるかして生きのびている。しかし一方でいつも腕に装着できる小さな装置は大きな可能性を持っているに違いない。携帯も置き忘れるが、時計はバンドでくくりつけられている。腕時計に時を知る以外の機能を与えられないものか?
時計メーカーは時計に新たな付加価値を与える試みを続けているにちがいないが、今回のBluetoothと携帯電話の接続もその延長線上にあるのだろう。
この実験機で試みられるのは、
1)携帯電話の音声着信やメール着信を腕時計の振動や音で知らせる。音声着信時には発信者名も表示し、メールの差出人名や件名も表示する。
2)バッグの中やポケットの中の携帯電話への音声着信を、腕時計の操作で保留応答や着信拒否をする。
3)携帯電と腕時計がある程度の距離で離れ、双方のリンクが途絶えた場合、腕時計がアラートする。
4)通常の音量に設定されている携帯電話の着信音を状況に応じて腕時計からミュート、もしくは解除する。
5)腕時計の時刻を携帯電話の時刻に同期させる。
といった機能だが、これらは基本的に腕時計が携帯の周辺機器として働くということだ。いまひとつ魅力のないアプリケーションだが、それでも将来に大きな可能性が感じられる。
腕時計の大きさには限界がある。その小さな空間に高い機能を詰め込むのは大変なことに違いないが、腕時計が他の機器とコミュニケーションを行う装置に変身するとき、その凋落は過去のものになる可能性がある。
製品化は2007年を目標にしているとのことだが、今すぐにでも欲しいデバイスだ。
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by hatano_naoki | 2006-03-02 17:56 | ネットとデジモノ
堀江メールは実在したか?
民主党の国会議員が予算委員会でメールのハードコピーを提示し、そのメールはホリエモンが自民党幹事長の次男に3,000万円送金するよう指示したものだと"暴露"した。
その後公開されたメールの送信者・受信者ほか何ヶ所かが黒く塗られていて分からないようになっていた。
それからすったもんだがあり、結局このメールはニセモノだということになり、民主党の議員が謝罪会見をするはめになっただけでなく、幹部の辞任にまで発展しそうな勢いである。
このてんやわんやの発端はメールのハードコピー1枚にすぎない。
今回のケースでいえば、ある電子データをプリンターで印刷して一部を黒く塗りつぶしたもの、あるいはプリンターで印刷してからそれをコピー機でコピーし、それから一部を塗りつぶしたもの、あるいはそれをさらにコピーしたもの(コピーした回数が複数回の場合もふくめて)のどれかが提示された。
当初は文体がホリエモンとは違うとか、使っているメイラーがホリエモンとは違うとか、メールにあるタイムスタンプから割り出すとその時刻にはホリエモンはメールを打てる状況にはなかったとか、ホリエモンは外ではパソコンは使わないとか、さまざまな指摘があり、このメールはどうも怪しいということになってきた。
黒塗りの部分に何が書かれていたかが議論になり、送信者と受信者が同じだという指摘があり、やはりこのメールは捏造されたもので"ガセ"だったということに落ち着いたようである。ガゼであれ、誰かがこのメールを自分あてに発信して受信した。それを印刷して一部を塗りつぶしたものが民主党の衆議院議員に渡った。

ところで、これまでの議論全体が、少なくとも送信されたメールが実在したという前提に立っているように見える。
しかし当たり前の話だが、電子データは作るのもいじるのも簡単だ。
たとえば、メールのヘッダーをふくむ全文はテキストエディターで書くことが可能だ。送受信したメールのヘッダーを書き換えたり、もちろん本文だって簡単に修正できる。
本当にホリエモンが送ったメールのヘッダーだけを書き換えることも、本文だけを自分のメールにコピーしてそれを自分あてにおくることも可能だ。
オリジナルの電子データがあったとしても、タイムスタンプをいじることもできる。
電子データとそこから生まれたハードコピーなどというものはすべてが夢幻の領域にある。

現時点では、ハードコピー上の送信者と受信者が同じだということがこのメールがガゼであると判断する根拠になっているようだが、以上の理屈からすると、本文がホリエモンが書いた本物である可能性を否定することはできないことになる。ホリエモンが書いたと言いたいわけではなく、にせものかもしれないし本物かもしれないということだ。
情報提供者あるいはその上流をたどれれば真実に迫れる可能性があるが、最終的な真実はおそらくライブドアのメールサーバーの中にしかなく、それはいまや検察の手中にある。捜査の最初の段階でメールサーバーを押さえた検察は実に問題の本質を見抜いていたわけだ。
爆弾男になりそこねた民主党議員の不思議な謝罪を見ながら不思議な気分になる。疑惑の科学的検証と、そこから明らかになる真実はどこにいったのか?

余計な話だが、爆弾男になりそこねた民主党議員のウェブサイトはこの件についてだんまりを決め込んでいるようである。
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by hatano_naoki | 2006-03-01 01:41 | ネットとデジモノ
PCM-D1が欲しい
d0059961_1985358.jpgPCM-D1はSONYが昨年発売した価格20万円の"ソニーのDNAを受け継いだ"ICレコーダー。大変に性能がいいと思われる。
この製品については読み物としても面白い開発者インタビューがある。
ソニーのアナログな意地、PCM-D1開発秘話(日経ビジネスEXPRESS X)
インタビューアーのソニーに対する懐古的な愛情、ソニーの現状に対する同情と義憤、それに半ばとまどう開発者たちという奇妙なインタビューだが、あとになればソニーの状況を伝える歴史的資料になることだろう。
このインタビューで一番印象に残ったのは、「大きな音で録りたいというよりは、このサーッというのが鳴らないものを作りたい。だからどちらかというと静けさに対してチャレンジしている。」という部分だった。
PCM-D1は高性能のICレコーダーである。DATが滅んだ今、それに代わるプロないしハイアマチュア向けの生録の機械として生み出されたセクシーというほかない工業デザインの極致。
私はオーディオマニアでも生録マニアでもないが、音が好きである。写真もいいが音の持つ想像力の豊かさがすばらしいと思っている。
音に関する私のワークは「ラジオ・アンコール」というインターネット・ラジオもどきに集約されるが、これらの録音に使われたのは手の中に入る小さなICレコーダーだった。
高性能の録音機というのは、人間にとって混じりけのない夢のひとつだ。そして私にとっても夢の領域にある。この高価な録音機で世界のあらゆる音を録れたら。

PCM-D1の製品ページ(SONYウェブサイト)
レビュー(blog "klingen lassen")

(写真・SONY PCM-D1)
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by hatano_naoki | 2006-02-27 19:08 | ネットとデジモノ
3ヵ月目のWX310K
WILLCOMのWX310Kを使いはじめて3ヶ月目に入った。
使い勝手はおおむね良好である。
通話、メール、入力関係はいずれも合格。
カメラはモノクロでしか使わない。これはカラーモードがひどいこともあるが、モノクロのチープな感じが実にいい。最近のブログに載せる写真はほとんどがこれで撮ったものだ。Nikon D200/Ricoh GR digital/WX310Kラインナップをそろえるのが理想なのだが。
動画はほとんど撮らないが、これもなかなかいい。これでモノクロのショートムービーでも作ったら楽しいだろう。
データストレージとしての能力も満足している。USB接続のストレージクラスというのは利便性が高い。実際、外でノートPCを使うときのデータバックアップに使っている。
画像ビューワーとしての能力はかなりのものだ。切り取った地図データを格納したり、写真帳としても使っている。pdfデータもいくつか入れているがなんとか実用になる。自分がよく参照するデータの置き場所としては理想的だ。
電卓機能も頻繁に使用。
Bluetoothは使っていない。Bluetoothキーボードが接続できれば最高なのだが。
あとは音楽プレーヤーが使えるようになればいうことはない。
あえていうならボイスレコーダーが欲しい。短い音のクリップが気楽に録れたら面白いだろう。現状ではムービーの音声部分を使うしかないが、それはそれで面白いかもしれない。
miniSDへのアクセスがやはりちょっと遅い。カメラの画質もうちょっと。
フォトライトがワンタッチで点灯できたら便利。
きょう体をもう少し薄く、軽量化。ヒンジ部のグラグラが不愉快。電源まわり強化か消費電力低減。

d0059961_8302696.jpgこういう機械を使っているといわゆるPDAの衰退の理由がよくわかる。個人レベルでは携帯で十分なのだ。個人の情報管理など幻想に限りなく近い。
私のニーズは出先でのちょっとした(あるいはかなり長い)文章を小さな機械で書くことなのだが、これだけはいまだに満たされていない。簡単にいうとstowawayのbluetoothキーボードをつないで書ける小型端末が欲しいのだ。現時点ではWindows MobileのPDAがそれにあたるが、大きさ・重さ・値段で二の足を踏む。しかし携帯にHIDプロファイルが入る可能性はきわめて低いだろう。あるいは、ワンセグ+bluetoothキーボード接続のニーズを満たす機械があれば、買ってしまうかもしれない。

(写真:stowaway bluetooth keyboard)
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by hatano_naoki | 2006-02-08 22:56 | ネットとデジモノ